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学生インタヴュー:小松昭人先生(民法)

法学部1年生有志が小松昭人先生〔教授・民法〕にインタヴューを行い、これまでの研究と現在の関心を伺いました。

 


 

――小松先生は九州大学法学部のご出身ですが、学部はどのように選ばれたのでしょうか。

私は最初の大学受験に失敗して浪人しました。最初の受験のときは関西に出たくて、実力も顧みず京都大学の法学部を受けましたが、見事に落ちました。それから約1年、予備校で一生懸命勉強しましたが、思うように学力が伸びず、地元で実家から通える範囲でということで九州大学を受験し、合格して入学しました。

法学部をなぜ選んだのかですが、私達のときはオープンキャンパスなどなかったので、法学部が実際にどういうところで何を勉強するのかというイメージを具体的に持てませんでした。学部の選び方は消去法でした。数学や理科といった理系科目が苦手だったので、進路は文系に絞られました。九州大学の文系の学部には、法学部、経済学部、文学部、教育学部の4つがありました。経済学には興味がちょっと持てなかったし、教育学部も自分が教育に携わる柄じゃないし、教育学を学ぶこともちょっと想像できない。文学部は、実は歴史が好きで、そういう好きなことを学べる環境だとは思ったが、就職先が見えない。文学部を卒業したら何になれるのだろう、学校の先生かしら、といった漠然としたイメージしか持てず、結果、残ったのが法学部でした。当時は、いまとは違い、法学部で学べば「つぶしがきく」と言われていました。要するに、幅広く進路を選べる、ということです。このようにして、法学部を選んだわけです。いまから思えば、いい加減な決め方をしたものです。そういう経緯で、九州大学の法学部で学ぶことになりました。

 

――「つぶしがきく」といわれましたが、その後は大学院に進まれました。どういったきっかけで大学院に進学を決められたのでしょうか。

先ほどお話しした理由で、漠然と法学部に入りましたが、私達のときは1年半、教養の科目を勉強して、それが終わってから専門課程に進む、という仕組みでした。その1年半は大学生活が楽しくて、将来のことをあまり考えることがなかったのですね。当時、福岡市の中央区六本松に教養課程のキャンパスが、福岡市の東区箱崎に専門課程のキャンパスがありました。両キャンパスは、ちょうど本学の有瀬キャンパスとポートアイランドキャンパスと同じように、バスで約1時間かかるほどの距離にありました。そんなことでより一層、専門課程を身近に感じる機会がなかったので、教養課程の間は将来のことをさほど考えていませんでした。

その後、六本松のキャンパスに別れを告げて、2年次の後期から、箱崎のキャンパスで専門課程を勉強し始めることになりました。刑法の授業に関しては、1回目の授業を聞いてもさっぱりわからず、一応試験は受けましたが、答案を書けなくて棄権しました。憲法はそこそこ面白かったのですが、ちょっと自分の肌に合わないなという感じがしました。そんな憲法や刑法の授業にくらべると、民法の授業は面白かった。面白くて一生懸命聴いていました。そのとき授業を担当した先生が、当時、法人のご研究で知られた方で、授業の中でもしきりと法人に関する話をされていました。そこで、試験を受けるときに友達と、あの先生の専門だからきっと法人についての問題が出るのではと思い、山を張ったら、権利能力なき社団に関する問題が出ました。山が見事にあたって優の成績をもらって、民法が好きになっちゃった。これ、自分に向いているのではないかと思って。他愛もない勘違いですが、これが意外と単純なきっかけのひとつでした。

それから3年次になってから、ゼミが始まりました。私が入ったのは、その後私の大学院で指導教員となる西村重雄先生がご担当のゼミでしたが、それが面白かったですね。これが決定的でした。西村先生のゼミでは、学生が選んだ最高裁判所の判例を毎週一件ずつ検討していました。ただ、普通の民法ゼミだと、この事件はどういう内容で、裁判所はどういう判決を下し、その判決にはどういう意味があって、学説はどうなっているか、みたいな話が中心になるでしょう。ところが、西村先生のゼミは、まず事件について、事実関係をとにかく掘り下げて理解しましょうというスタイルでした。だから、私達は事件の事実関係に関わりそうなことについて、とにかく手探りで、いろいろ調べました。インターネットのない時代でしたから、ゼミの直前になると、大学の中央図書館の書庫にもぐって、資料を探して本棚の間をうろうろしていました。当事者が会社の経営者だったら、企業の人名録とかを参照して、この人はこんな経歴の持ち主ですよ、モットーはこれこれです、みたいな話を話したら、えらく先生が面白がってくれました。法律とは全然関係ないですが、それがすごく面白かったことの一つですね。土地に絡む紛争の事件だったらその所在地について調べます。市町村史なんかを見て、この時期この辺はこういう状況でしたといったことも調べました。あとは物価ですね。事件によっては自分が生まれる遥か昔の事件だったりするので、当時の物価は、当然ですが、今のそれとは違います。事件で問題となった売買代金や貸金の額は今だと幾らぐらいか、といったことも調べて報告しました。これまで話してきたことはすべて、法律論には直接関わりのないことかもしれません。でも、事件の当事者の立場で考えたとき、どうしてこの人たちの間でこんなトラブルが起こってしまったのか。しかも、最高裁まで都合3回裁判をして、めちゃくちゃ時間や費用がかかるのに、この人たちはなんで意地になってここまでやっているのか。そういうところから始めて自分の頭で考えていかないと、法律論をいくらやっても腑に落ちないのではないか。今にしてみると、そういうことを先生は私達に問いかけておられたのではないかと思います。

 先生は、とても異色の経歴の持ち主でした。京都大学法学部のご出身で、裁判官になりたいと思って司法試験を受けて司法修習まで行ったが、やっぱり学問がしたいと京都大学の大学院で研究の道に入り、ローマ法を専攻されておられました。そういう異色の経歴をお持ちの先生だったので、判例を読み解く際に、現場の法曹の感覚や目線をお持ちでした。学者だと理論が先に立ちやすいですが、先生は、事件の当事者がどういう思惑や意思を持って振る舞い、裁判で争っているのかを、ご自身の知識や経験に基づいて推測されながら、質問を発しておられました。先生のそういう面白い、もっと言えば奇想天外な質問に、私達は常に意表を突かれっぱなしで、なかなか答えられない。そういうゼミでした。ゼミで先生の質問になかなか答えられませんでしたが、先生のような疑問を持ってよいのだと、とても刺激を受けたことは今でも覚えています。

 そういうことが重なって研究者の道に進もうと決意したかというと、不思議とそのときはそう思いませんでした。研究者になろうと思ったのは、体調不良になったことがきっかけです。実は私、3年次の春先から4年次になるまでの約1年間、体調不良になりました。微熱が続いて、お腹が痛いし、どんどん痩せていく、そういう症状に襲われました。3年生の間ずっと満足に大学の授業にも出られませんでした。3年生の後半、進路を決めなければならない時期に体調不良に襲われ、しかも原因がよくわからないので、精神的にも肉体的にも、卒業後の進路をまともに考えることができませんでした。そんな中で、夏休みに、西村先生が、ゼミが終わった後で、「小松くん、大学院で勉強してみないか」ということをおっしゃった。長いお話ではなく立ち話程度のやりとりだったのですが、その話を頂いたときは、そんな道もあるのかと思っただけで、それで大学院に行きたいという気持ちにはまだなりませんでした。その後もだんだん体調が悪くなっていって、大学3年生の秋にやっと診断がついて、病名がはっきりしました。その病気、最近ではだいぶよく効く薬が出来て、症状をコントロールしやすくなっていますが、それでも大勢の患者さんが苦しんでいます。当時は、開業医レベルでは未知の病気で、有効な治療薬もあまりありませんでした。そのことに打ちのめされてしまったうえに、大学3年生の冬に薬を飲み始めたのですが、薬が合わなくて緊急入院しました。大学病院で確定診断がつき、治療の効果も出始めて、ようやく将来のことを考えるゆとりができました。ただ、病院でお医者さんからは、「ストレスの少ない仕事を選びましょう」とか、「民間企業とかで働いていたら再発しますよ」とか言われました。そこで私が「それでしたら、ストレスの少ない仕事って何でしょうか」と尋ねたら、お医者さんいわく「公務員のような安定した仕事がいいでしょうね」と。そんなことを言っても、この1年、体調不良で公務員採用試験に向けた準備も満足にできなかったので、どうしようと途方に暮れました。ただ、病院のベッドの上では考える時間だけはいっぱいあったので、ずっと考えていたときに、西村先生から頂いた言葉を思い出しました。その言葉を思い出して、病院のベッドの上から、ある意味すがるような思いで「大学院で勉強したいです」と、在外研究中の先生にお便りをしました。その後、幸いにもだいぶ症状が落ち着いてきました。そして、4年次の初め頃、在外研究からお戻りになった先生から、呼び出しを受けました。「手紙は読んだ。だったら大学院の入試を受けてみないか」と言われて、「ではお世話になります」ということで、大学院への進学を決めたわけです。

 

――それで大学院は西村先生のお弟子さんとして進学されたということですが、西村先生は著名なローマ法の研究者でいらっしゃいます。小松先生は大学院ではローマ法の研究もされていたのでしょうか。先生はイングランド法を研究対象にされていると伺っていますが。

民法が好きで得意かも、と学部の頃には思ったのですが、大学院で民法の先生のご指導を受けようとは考えませんでした。西村先生とのご縁があったこともその理由ですが、もう一つは、やはり自分の関心を突き詰めていくと、理論的なことよりも歴史が好きだということです。そこで法制史、とりわけ西洋法制史・ローマ法という分野を専攻しようと決心し、ローマ法をご専攻の先生のもとでローマ法専攻の院生になったのですが、ここからが大変でした…。

ご承知のように、ローマ法文はラテン語で書かれています。古代ローマ帝国の文化遺産にはいろいろあって、例えばフランスに行くと今でもまだ古代ローマの遺跡がいっぱいあります。イタリア、とりわけローマにもあるし、北アフリカや中東にも古代ローマの遺跡があります。古代ローマの建築や土木インフラは見事ですし、しかも二千年もの間、形をとどめているのがすごい。そしてもう一つ、ローマの遺産と言われているのが、実は法律です。人と人との間の法律関係をどういうふうに規律するか、とりわけトラブルが生じたときにどういうふうに解決していくかについて、古代ローマ人は非常に優れた感覚をもっていました。そういうローマの社会で起こる様々な紛争に対して、法学者と呼ばれる人たちがいて、その法学者たちが、裁判を担当する法務官というお役人から、こういう事件はどういうふうに解決したらいいでしょうかと、諮問を受けるわけです。法学者は、その諮問に対してこうしたらいいのではと回答したものが、当時書物として出版されましたが、後に、その書物から重要な部分を抜粋して編まれた本がこれです。

[聞き手にモムゼン=クリューガー版『ローマ法大全』を示す]

ラテン語でコルプス・ユーリス・キーヴィーリス、和訳すると『ローマ法大全』といいます。その中でも、古代ローマの代表的法学者の学説を抜粋したものということで「ディゲスタ」、英語で言えばダイジェスト、要は抜粋という意味ですが、この本が「ディゲスタ」です。文字はアルファベットですが、書かれているのはラテン語です。11世紀頃、この「ディゲスタ」の写本がイタリアのピサという街で発見されました。当時のヨーロッパの人たちは、古代ローマの技術や文化はすごかったが、とりわけ法律がすごかった、でも、古代ローマ法を知るためのまとまった資料が失われてしまったのが残念だ、と思っていました。ところが、知りたいと思っていた古代ローマ法を記した写本が発見されたというので、みんな沸き立ったわけです。これで古代ローマのすごい法のありようがわかると大喜びで、そこからローマ法の研究が始まります。ドイツやフランスの民法、そして日本の民法も、実はこの『ローマ法大全』、とりわけ「ディゲスタ」を素材に研究した成果をルールとして採用しています。法律の世界では、昔考えられたことが実はすごく役に立つことが結構ありますが、そういうことを私の指導教員であった西村先生が研究されている。日本では、古代ローマ法の研究がヨーロッパに比べると進んでいなかった。明治の日本は、西洋の、当時最先端の法制度や法学をとにかく学び、それを踏まえて自国の法制度を作るところからスタートしましたが、ヨーロッパの法制度や法学のひとつの大きな源である古代ローマ法の研究は、法制度の整備とは無関係と思われたためか、どちらかと言えば後回しになりました。このため、日本では、法制度の整備が一段落した後に、古い時代の法の研究が本格化することになり、順序がヨーロッパとは逆になってしまいました。

私がローマ法を研究対象にしなかったのは、ラテン語ができなかったからです。そりゃ、ラテン語、いきなりは読めないですよ。とにかく名詞、動詞、形容詞の語尾変化が複雑で、最初は憶えようにも憶えられない。先生は無茶苦茶で、大学院に入ったときに、先生が作った資料で一時間半くらいラテン語の文法の解説してくださいました。「それでは小松くん、来週からローマ法文を読んできなさい」というので、思わずのけぞってしまいました。90分でラテン語がわかるのだったら苦労しないよと思いながら。でもやっぱり読めないんです。だから、ローマ法専攻と名乗るにはおこがましい。言語のところで引っかかっちゃったわけです。ラテン語で書かれているから、ちんぷんかんぷん。おまけに古い時代の話なので、そこに書かれている内容も、仮に文法がわかったとしても、それがどういう内容かを更に理解しないといけないのですが、その知識もまだ十分でない。毎週「ディゲスタ」の特定の部分を決めて、その法文を一つずつ読む、ゼミのような授業がありました。エクゼゲーゼと言います。そのエグゼゲーゼでは、先輩たちが報告するのをただただ聞いて、ぽかんとしていた。先生がそれに対していろいろコメントするのですが、それも何だかよくわからないという状態が1年ぐらい続きました。今考えてもすごく高度なことをやっていたのだと思います。ただ、それを理解する素地、素養が私には十分なくて、おっとり刀で大学院に入ってラテン語の勉強を始めました。その時ずいぶん助けていただいた方がおられて、その方のもとでラテン語の文法も一通り勉強したのです。そういう先輩、先生方に混じりながら1週間に一度、自分もたまに報告する順番が回ってくのですけど、それが怖くて。読んでいったら先生からいろいろ言われてボコボコにされるわけですね。全然読めてないよねと。あるときは、「いやー小松くん、君、ラテン語の辞書を引いたときに、文脈を考えずに、その言葉の説明で一番初めのところに出てくる意味を拾って訳しているようだけど、それだったらおかしな訳になるのは当然だよね」と、さらりとおっしゃるわけですね。おっしゃる通りなのですけど、これでも一応、苦心惨憺頑張ってはいるのですが、というような状況が続きました。ローマ法の勉強はそういう形で一応続けてはいましたが、自分がそれで修士論文を書けるとはとても思えませんでした。

他方で、イングランド法との出会いはある意味、偶然でした。大学院の入試のときに英語の試験があるのでその試験対策を兼ねて「小松くん、イギリスの中でも、イングランドの判例を読んでみないか」という話を、大学の4年生の時にいただきました。先生がそのためのゼミもしてくださったのです。そこでイングランドの判例を読んでいったわけですが、こちらはさすがに英語勉強していたので、ラテン語よりは遥かに意味がわかった。イングランド法を研究対象にした一番の大きな理由は、お恥ずかしいですが、英語がわかるから、ということだったんです。

もう一つ、イギリスの裁判所の判例は、叙述がすごくわかりやすいですね。ローマ法の法文は、叙述が圧縮されているものが多く、ときに完全な文章になってなかったりもするので、これをどう読んだらよいのだろうと考え抜く必要があります。それは、後から振り返ると、とてもよいトレーニングだったのですが、当時の自分にはつらかった。それに比べると、少なくともイングランドの裁判官が書いたものはよくわかる。実はイギリスの裁判官って、いい意味での超エリートです。日本だと、司法試験に合格すると、今だと約1年の司法修習を受け、修了後に裁判所に採用されれば、最速で20代後半で裁判官になれます。最初から裁判官としてキャリアを積んでいくので、キャリア裁判官と言われます。だから、若い裁判官がいても日本だと当たり前。ただ若い裁判官が一人で実際に裁判できるかというと、そんなことなくて、実際任官した後、先輩裁判官からトレーニングを受けています。イギリスの場合は日本と違って、バリスタと呼ばれる法廷弁護士およびソリシタと呼ばれる事務弁護士のうちから、経験と実績を積んだ人が裁判官に選ばれます。法曹のスタートは皆弁護士でという意味で、法曹一元という仕組みです。弁護士になってからキャリアを積んで、業界あるいは社会から評価を受ける中で、この人だったら裁判官にふさわしいとなると、一定の手続きを経て裁判官に任命されるわけです。裁判官の人数も多くありません。今でも比較的少数精鋭です。学識や経験の豊かな弁護士から裁判官が選ばれるので、裁判官は当然、弁護士の実務はよくわかっています。日本の裁判官は弁護士としての経験を積まないまま裁判官になってしまうケースがほとんどです。弁護士としての経験が豊かだったら絶対に犯さないミスを裁判で犯してしまうことも、若くして裁判官になってしまうと、ないではありません。これに対して、イギリスのような法曹一元の国では、裁判官は、当事者やその弁護士の発言や振る舞いから、君達そういうことでこういうこと言ったりしたりしているんだね、と手に取るようにわかるし、弁護士の先輩で有能な人たちが裁判官なので、後輩の弁護士も裁判でおかしな真似はできないわけです。このように事件を的確に解決していく能力と実力を併せ持った人たちが裁判官になっているし、その人たちが平明かつ論理的に判決を書くので、当たり前と言えばそれまでですが、読んでわかることをちゃんと書いているわけです。なぜそうなのか、どうしてそうなのかってことを、きちんと先例を踏まえて書いているところも面白いと思ったし、事実関係を踏まえてこの事件でベストの解決ってなんだろうということを考えに考え抜いている。先例も、いろんな先例を持ってきて、その中でこの解決に役立ちそうなものはどれかを吟味しながら、判決を書いていく姿勢が実に深いと思ったわけです。もう一つは、偶然ですが、大学院入試の準備としてたまたま19世紀のイングランドの判例を読んでいましたが、イングランドはその頃ちょうど時代の変わり目にありました。例えば、科学技術が発達すると、生産手段、移動手段、コミュニケーション手段が急速に変わり、19世紀ヨーロッパ、とりわけイギリスから、世の中が激変していくわけです。そうすると、法も変えなければいけませんが、世の中の変化に合わせて法も変えましょう、というお題目を唱えれば済む話ではないわけですね。下手をすると、ただただ変化に振り回されて、法、ひいては社会秩序が混乱することになりかねません。当然、ただ変化に対応するだけではいけないので、これまでの先例を踏まえつつ、どういうルールを設定していかなければならないかという問題意識というか、ヴィジョンを、裁判官がしっかり持つことが大事になってきます。もっと言うと、イギリスの裁判官は法を作る人、法を語る人です。日本の裁判官は、法律が与えられています、裁判で事実関係が明らかになります、ルールを当てはめて結論を出します、ということが基本的なお仕事なので、そもそも適用すべき法が何かという前提から検討する手間は、ラフな言い方をすれば、基本的には省かれているわけです。ところがイギリスの場合、基本的な法、民法にあたるような法は、実は全部、判例法です。これまでのいろんな事件の判決として出てきたものが積み上がっていって、そこから適用すべきルールを引き出してきて事件に適用するのが、裁判官の仕事です。だから、イギリスではこういう便利なものはないです[六法を示す]。あるのは判例集だけ。裁判官その分、事件に適用すべき法とは何かを根本から考えないといけないという意味でも、能力が高くないと裁判することができないと言えます。当然、世の中の変化に合わせて法も変えなければならないけれども、ただ変化に対応するだけでは、また別のところで想定外の問題が起こるおそれもあるので、よくよく考えてルールを設定することも大事な仕事になっていたわけです。何か変化があるからそれにすぐに対応しなくては、と私達は考えがちですが、その変化に即してルールを変えていくとしたら、どういうルールがあるべきルールなのかは、ちょっと立ち止まって考えなければなりません。ただ変えさえすればよい、というわけにはいかない。確かに、取引に携わる人たちから、取引に都合が良いからこんなルール作ってよ、という要望はあるけれども、それをそのまま鵜呑みにしていいのか。そっちはそっちで言いたいことあるかもしれない。でも、こっちはこっちで、ルールを扱う裁判官としておかしなルールを設定することができませんと。変化に一方的に流されるわけでもないし、頭からルールは変えませんと言っているわけでもない。そういうことが判例を読むと伝わってくるのも、魅力だったわけですね。積み重なった先例に照らしながら、変化に対応するためにどんなルールがあるべきルールかというところから一生懸命考えているところがすごいなあと思いました。

私の先生はローマ法の専攻の先生で、普通だったら、君はローマ法を学びに私の元に来たのだから、ローマ法を勉強しなさいよ、と言われるかなと思って身構えていましたが、先生はそうはおっしゃいませんでした。だったらやってみたらっていう感じで、イングランドの判例をベースに研究することを否定しませんでした。ずいぶん後に伺ったことですが、実はイングランド法は、ローマ法とよく似たところがある。まず判例を中心に法が作られている、ケースをベースに法が作られているところは共通ですし、法律家の立ち位置もローマとイングランドでよく似ている。弁護士から、裁判官になり、あるいは法学者になっていくっていうような人たちがいるところも共通している。そして、先生によれば、実は日本の法、とりわけ民法を研究するときに、フランスやドイツの民法の研究を参照することが多いが、ドイツやフランスの民法が100%正しいかっていうと、そうでないかもしれない。ドイツやフランスの法を、それってどうなんだろうね、それで問題はないのだろうか、という一歩引いた立場で研究していくとすれば、他の材料を探さないといけない。そのような比較の材料として、実はイングランド法とローマ法があって、この2つを踏まえて、フランス法やドイツ法、そして日本法と比較し検討した方が、もっといろんなことがわかるのではないか。先生はこのように思われたそうです。そういう考えがあって、私に向かって、敢えてイングランド法の研究をやめろとは言わなかったのだと。そのようなお言葉を伺って、先生の考えは深いなとつくづく思いました。

――修士論文と博士論文ではどのようなことを扱われたのでしょうか。

修士論文は、無権代理人の責任についてイギリスの判例がどのように展開したかを研究した論文です。日本だと民法117条が問題となります、難しい理論的な問題で、代理人がやったことの法律上の効果、例えば、私が高木さんの代理人として、関本さんを相手に契約を締結するにあたり、私が高木さんから代理権をもらってなかったり、あるいはもらっていたとしても、代理権の内容を勘違いして代理権の範囲を越える内容の契約を関本さんと締結したり、そういうことが無権代理の問題としては出てきます。代理取引は、遠隔地との取引で盛んに行われます。たとえば、高木さんが遠くにいて、「関本さんからこれ買って」って私が頼まれれば、今だといろんなコミュニケーションツールがありますから、依頼に応じて簡単に私は関本さんから頼まれた物を買うことができますが、19世紀だとやっと電報が出てきたぐらいの時代なので、遠隔地にいる代理人の存在は非常に大きいです。つまり、その人の判断で儲かったり損したりするわけです。そのときに、例えば私が、高木さんの代理人として、関本さんから物を買ったときに、代理権の範囲外のことをやったら、高木さんは「あなたが勝手にやったことだから、私、関係ありません」って当然、言えます。これ、無権代理です。他方で、関本さんからすると「高木さんの代理人というから小松に売ったのに、何で代金を支払ってくれないんだ」となるわけです。そうなると私の責任問題が出てくるわけですね。日本でもかつてそうでしたが、この説明が理論的にはすごく難しい。このとき、私は、高木さんの名前で契約しています。だから、私自身が売買の当事者になるわけじゃありません。無権代理なので、本人である高木さんには責任を負ってもらえない。他方で、私が責任を負えるかと言えば、私は契約の当事者じゃないから、契約に基づく責任は問えない。そうなると、じゃあどうやって、私の相手方である関本さんは私の責任を追及するのか、が問題となります。同じような問題が実は当時のイングランドでも起こっていて、無権代理人の責任の根拠について、判例でいろんな説明が試みられましたが、なかなか上手く説明ができませんでした。最終的には、私が高木さんの代理人として契約を締結するというときには、実ははっきりそうとは言わないけれど、高木さんの代理人である私は「高木さんからちゃんと代理権はもらっていますよ。それに基づいて関本さんと契約を締結しますから、どうぞご安心してください」ということを、黙示と言いますが、言わなくても暗黙のうちにそういうことを併せて約束しているものと考えましょう、と解決を図ったのが、1857年の判例です。無権代理人の責任の根拠についての説明が、ようやくそこで落ち着いた。当時の裁判官はいろいろと説明を試みましたが、どれもこれもうまくいかなくて、最後にこういう理屈にたどり着きました、という過程を、当時の判例や学説をもとに検討した、そういう論文だったわけです。

博士課程にあがったときに、イングランド法における無権代理人の責任というテーマは、もうそれ以上掘り下げるほどのものではありませんでした。そこでどうしようと考えて、代理絡みで探して行く中で出会ったのが、問屋法という法律に関する問題です。例えば、高木さんが、アメリカの南部で綿を作っている農業経営者だとします。綿を作ったら当然、綿糸や綿織物を製造するための原料として、それを売らないといけません。ところが、大口の需要者がイングランドの綿糸や綿織物の工場主で、工場がイングランドにあるとすると、綿花をイングランドに出荷しなければなりません。綿花は、イングランドの工場主に買ってもらわないといけませんが、アメリカの南部にいる高木さんには、イングランドは遠過ぎます。高木さんは、イングランドの工場主と直接取引をすることなどできません。そこで、高木さんは、イングランドにいる商人の私に、綿花の販売を委託します。「私の作った綿花を送るから、そちらで綿花を売って、代金は私に送ってね」って。当然、高木さんが販売を委託した綿花は、すぐには現金になりません。売れるまで、どうしても時間がかかります。そこで高木さんは私に「綿花が売れたら、その代金からあなたが私に貸したお金を回収していいから、それまでちょっとお金を貸して」と頼みます。私は高木さんにお金を前貸しします。私は高木さんから綿花を預かって、イングランドで綿糸や綿織物を作る工場に販売するわけです。こうすることで高木さんには先にお金は入るし、工場主は綿花が手に入る、私は販売手数料に加えて、高木さんに貸したお金の利息が入る、ということで、みんな得します。ただ問題は、ここからです。私は高木さんが預けてくれた綿花を、より高く売りたいって考えるわけです。より高く綿花が売れれば、高木さんはそれだけ多く利益を得られるだけでなく、私もそれだけ販売手数料を稼げます。そのために、市場で思ったように綿花が高く売れそうにないときは、綿花を売るのを先延ばしにします。そして、市場価格が高くなったところを見計らって売れば、その分、儲かる。そういう取引で私のように間に入って儲けようという人、つまり問屋が出てきます。委託された物品を問屋が高値で売ることは、商品を委託した人にとって利益になるので、一般には良いことでしょう。問題は、販売を委託された商品について、商品を委託した人にお金を前貸しすると、そのための資金が必要となり、問屋が資金を調達しなければならなくなることです。そこで問屋は何をするか。問屋は、販売を委託された商品を、「これでお金貸して」って、別の人に質入れするんです。例えば、私が、高木さんから販売を委託された綿花を、二反田くんに「これでお金貸して」と依頼し、二反田くんはそれを質に取って私にお金を貸します。二反田くんから私がお金を借りるのは、要するに、高木さんから販売を委託された綿花が高く売れる時期を、頑張って待つためです。これも一見すると良さそうな話です。確かに、二反田くんが質に取った綿花が高値で売れれば、みんなハッピーです。しかし、綿花は商品作物なので、年によって豊作のときもあれば不作のときもあります。また、景気の動向など、何らかの事情で綿糸や綿織物が売れたり売れなくなったりすることもあります。こうしたことで、綿花の市場価格は上下します。問題は、綿花の市場価格が不安定なときに、綿花を売るタイミングを間違ったら、えらいことになるんですね。二反田くんは問屋である小松に「貸した金返せ!」って言ってくるわけです。高木さんは高木さんで、「あなたに委託した綿花、いつになったら売れるの!」と私を責め立てるわけです。そうなった時点で、問屋である小松は、資金繰りがつかずに、もう破産しちゃっている。そうすると、二反田くんは、小松への貸金を取り立てないといけないから、質に取った綿花を売ろうとしますが、それって綿花の所有者である高木さんとの関係で売れるの、という問題が出てきます。高木さんの側からは、綿花はそもそも販売するために委託したのであって、質入れするために委託したわけじゃないでしょ、という理屈が出てくるわけです。高木さんは、委託した綿花を小松が販売してくれるのなら権限の範囲内の行為でいいけど、私の知らないところで勝手に私の綿花を二反田くんに質入れするのは権限の範囲外の行為なので、小松がした二反田くんへの質入れは高木さんとの関係では無効だから、小松が質入れした綿花を返して、と二反田くんに主張します。それでもめるケースが19世紀初めのイングランドで頻発して、社会問題になりました。日本だと、民法192条の即時取得の規定があって、綿花の所有者らしく見える小松から、小松が綿花の所有者でないと知らず、注意してもわからないまま、二反田くんが綿花を質に取っていたのであれば、二反田くんは高木さんの綿花に質権を取得し、高木さんは質権の負担付きの綿花の所有権を持つことになります。その結果、二反田くんが質権に基づいて綿花を持っていれば、高木さんは二反田くんに対して綿花を返せとは言えなくなり、二反田くんが勝つという結論になります。これに対して、イングランドには民法192条に相当するルールがありません。このため、小松が勝手に権限の範囲外で高木さんの綿花を二反田くんに質入れしたという理由で、二反田くんは高木さんの綿花に質権を取得せず、高木さんに綿花を返さなければならない。裁判所はそうした判断を下し続けました。これは当然、高木さんにとってハッピーな結果です。裁判所から見ると、問屋である小松が悪い。綿花の市場価格を吊り上げ、より多額の利益を得ようとして、高木さんから販売委託された綿花を二反田くんに質入れして資金を調達している。そして、悪いのは儲けに目のくらんだ問屋の小松だけれども、小松のそういう内情を薄々知って、綿花を質に取って資金を貸した二反田くんも、市場価格の吊り上げに加担しており、綿花の質権を失うという不利益を受けても仕方がない。おそらくそうした価値判断があって、元々商品を委託している所有者を保護しましょう、という考え方に裁判所は従っていました。たまらないのが、二反田くんのように、商品を質に取って問屋に資金を貸した商人達です。問屋の小松がお金に困っているというのでお金を貸してやったのに、破産した小松から貸金を返してもらえない状況で、なんで自分達が質にとった商品をみすみす返さなければならないのかと、文句を言い始めるわけです。今のちょうど銀行のような役割をこのときイギリスで果たしていたのが、二反田くんのような立場にあって、商品を質に取って問屋に資金を貸した商人達です。これらの商人は、後に金融業に特化して「マーチャント・バンク」と呼ばれる存在になります。その商人たちは、問屋が販売を委託された商品を質入れした場合、少なくとも問屋に商品を販売する権限があるのなら、質入れを受けた商人は、問屋から質に取った商品について質権を取得することができるよう議会で特別の法律を制定すべきだと主張し、議会に強く働きかけます。それがうまくいってできたのが、問屋法という法律です。要は、商品の所有者の権利を保護することが原則だけど、商品の流通を円滑にすることも重要だ、そうだとすると、商品を担保にお金を貸す人達も保護していかなければ商品の流通は円滑にならず、回り回って商品の所有者も不利益を受けるよね、という発想です。二反田くんのように、商品を質に取って問屋に資金を貸す商人が資金を貸してくれなくなったら、言い換えると、販売を委託された商品はとにかく売る、という選択肢しか問屋に与えられていないとすると、問屋としては商品の現金化に困るわけです。商品が高く売れるときに売れればいいけど、安くしか売れないときは、やっぱりちょっと待ちたいじゃないですか。でも、待っている間に、商品の所有者が資金を必要とすることがあるわけです。問屋としては、商品の所有者に必要な資金を調達してあげたいですよね。そしたら、二反田くんのように、商品を担保にお金を貸してくれる商人がいるなら、その商人からそのお金を貸してもらった方が、商品の所有者にとってありがたいでしょう。そして、もうちょっと商品の価格が高くなったら、より商品が高値で売れるだろうから、それまでは必要な資金を調達するために、もともとは販売を委託した商品ではあるけれど、自分の商品を担保として問屋に活用してもらった方がいいし、それで商品の所有者は、確かに時折損もするけど、長い目で見れば得をしますよね、という論理で、特別の法律が制定されたわけです。今の日本でも、在庫商品をどうやってお金にするか、つまり、在庫商品が売れて現金が手に入れば一番いいけれど、いろんな事情で在庫商品が売れないときにどうやって在庫商品を使って必要な資金を調達するかが、問題となっています。イギリスでもそういうことが問題になっていった時期に、問屋法の制定のきっかけとなった紛争があり、それを立法で解決していく過程を博士論文では扱いました。

 

――博士論文は1999年に提出され、『法政研究』67巻4号(2001年)〔「販売委託商品の取り戻しと善意有償取得者の保護 : 一九世紀イングランド・初期問屋法立法を中心に」〕に発表され、それから『比較法研究』比較法研究64号(2002年)〔「商事代理人からの動産善意有償取得者の保護」〕にも要約的なものを掲載されています。さきほどお話にあった修士論文は『法政研究』70巻4号(2004年)〔「イングランド法における無権代理人の責任と黙示の権限担保法理 : Collen v. Wright (1857)事件までの判例・学説の変遷を辿って」〕に出たものですね。

はい、要は外観と内実が食い違うところに、私はどうも興味を持つ傾向があるみたいです。権限内の行為をその通りやってくれれば何の問題もないのですけれど、権限を持っているふりして実は全く権限の裏付けがないのに行為をしてしまうというのは、まさに外観と内実が食い違っているわけじゃないですか。あるいは、ちゃんと代理権を持っているよねと思って取引をしているのに実際はそうではなかったり、ちゃんと商品に対して権利を持っているはずだから質に取ってお金を貸したのに、実際は販売のため委託されていただけで商品に対して何ら権利を持っていなかったり、これらの場合も外観と内実の食い違いですよね。外に現れているものと実際の中身とが食い違うところに、どうやら関心が向かうようです。

 

――そうですね。外観と内実の違いといえば、民法総則の錯誤の問題がありますが、続いてお書きになった「イングランド法における契約の相手方の同一性の錯誤と動産の善意有償取得者保護:Shogun Finance Ltd. v. Hudson事件貴族院判決を機縁として」法政研究72巻3号(2006年)にもその関心が通底しているのかなと思います。その後、在外研究に出られましたがどのようなことをなさったのでしょうか。

2006年の9月から2008年の8月まで2年間、神戸学院大学の海外研究員として、イギリスのブリストル大学で客員研究員として勉強しました。実は元々法学部のスタッフで在外研究を予定していた方がいらっしゃったのですが、ご事情があって行くのを取り止めることになったので、急遽代わりに誰が行くかという話になって、かなり短期間で在外研究に出ることを決めた記憶があります。なので、きちんとプランを持って在外研究に出たというよりは、出られるんだったら出てみようじゃないかという、ある意味、出たとこ勝負のような気持ちで決心しました。在外研究の受入先をブリストル大学としたのも、たまさかホームページを見ていて条件がぴったりかと思ったのでそこに申し込んだら受け入れてくれたという、偶然に偶然が重なったような経緯で決まりました。いま、契約の解釈という話が出ましたが、これは錯誤にも実は関わってくる話ですけれど、例えば、この時計を売りますという例で言えば、「この時計を売ります」という効果意思があり、その内容を「この時計を売ります」と口頭で伝えたり書面やメールなどに書いたりして、相手方に表示行為をします。そのようにして作り出された申込みに対して承諾をすることで契約が成立し、契約に基づく権利義務が発生する。しかし、そもそも、「この時計を売ります」という効果意思と表示行為が食い違っているかどうかは、外部に現れた表示行為の内容を確定しないと判断することができません。先ほどの食い違いということにも関係がある問題ですが、私を受け入れてくださったブリストル大学の先生がたまたま契約の解釈に関して大きな研究書を出されたので、イギリスでも問題になっているのかと思い、いろいろ判例を見てみようと思ったのが、この、契約の解釈という問題に手をつける一つのきっかけでした。

でも、そればっかりじゃなくて、日本にない文献もあったので、図書館に行って毎日判例とか興味のある本をひたすら読んでいたというのが勉強の実態です。イギリスに行って初めてわかったことなんかもいっぱいあって、今いろんなことを考えるときのきっかけになっています。イギリスに行って面白かったなあと思うのは、ドイツの哲学者であるニーチェが「神は死んだ」ってことを言うんですね、ヨーロッパでも19世紀には科学技術が目覚ましく進歩して、神様はいないんだ、宗教なんて古臭いしいらないよという考えもかなり広まりました。しかし、イギリスに行ってみて、神様は死んでない、まだ生きているよと思いました。どういうことかというと、至る所に教会があるわけですよ。都市部はともかく、田舎の方に行くとやっぱり信心深い人が神様を信じていて、そんな雰囲気もあってか、例えばボランティア活動はすごく盛んですね。汝の隣人を愛せよじゃないですけど、そういう考えが社会に根付いていることを実感しました。同じように、寄付も盛んです。寄付の文化があって、美術館なんかに行くと誰それが建設資金を寄付してこの建物を建てましたというプレートが貼ってあったりするわけです。お金を寄付してくれた人の名前をつけて、建物の名前にするっていうケースがすごく多いです。そうしたことを見聞きすると、宗教、とりわけキリスト教は今でもしぶとく生きているのだと思いました。そういうことをすごく感じて、そのことはイングランドの法を理解するときに何か一つ大事な視点になっているような気がしています。あとは、とても自由な雰囲気でした。人目を気にしなくていいという感覚がすごくあり、のびのびした気持ちになれました。大学の仕事もなかったからということも大きかったと思いますが、何より開放感が強かったです。ただ単に自由な時間を過ごさせてもらっているというだけでなく、何かイギリスと日本の社会とか国の有り様に違いがあるのではないかということも考えたりしました。このことについてはいろんなキーワードがあります。たとえば、「自由」ってどういうことなんだろうとか。あとは「寛容」ですね。お互いがいろんな考えを持ったり、違う考えを持っていてもお互いにお互いの考え、意見を尊重し合ったりとか。あるいは「伝統」ですね、古くからあるものを守り受け継いでいくということであるとか。あとは「プリンシプル」。日本だと原理原則と訳されることがありますが、状況に応じて判断を変えていくけれども、必ずどこか一本筋が通っている、という意味の筋だと私はプリンシプルを理解しています。そのプリンシプルについてはすごく考えさせられましたね。柔軟だけどどこか一本芯が通っている。流されるわけでもなく否定するわけでもなく、でもちゃんと筋を見通して、こういうふうに判断します、行動しますという雰囲気は感じましたね。

研究の話に戻ると、在外研究から戻って、契約の解釈の問題を手がけましたが、問題が大きすぎて、手に余って挫折してしまいました。『神戸学院法学』に乗せた論文〔「イングランド法における契約書の解釈と補正(1)当事者の意思を契約書に反映させるために締結前交渉過程prior negotiationsの証拠はどのように利用されるべきか」神戸学院法学43巻4号(2014年)〕の続編が出てないのは、そういうことです。これまで書いた論文で、そういうことはなかったのですが、私にとっては挫折でした。そこで、もともと自分がやっていた研究手法に立ち戻らなければと思っています。法の比較となると、どうしても現代のことに目がいっちゃうわけです。例えば、「今」のイングランドと「今」の日本はどうなっているのだ、というふうに、日本と世界各国の「今」を比較し合うことになりがちですが、それは自分らしくないと思いました。今の日本法の問題の解決に役立つかどうかはとにかく脇において、まずはそもそもイングランドでこれまでどうだったのかということをきちんと見ていく。その中で自分なりの考えとか答えを出していくことが大事だし、自分にはそれしかできないなと思い直しました。だから契約の解釈の論文が完結しなかったのは、自分にとってはいい反省の機会だったと思っています。

だいぶ前に、研究会の後の懇親会でご一緒した先生が、「イングランド法の根幹は不動産法だよ」ということをおっしゃっていましたが、その言葉の意味がやっと最近わかってきました。日本の例で申せば、鎌倉幕府が百年以上続いた一つの大きな理由は何だったのかというと、御家人同士の間で起こる土地争いを、きちんと法に従って裁判していったからだと思うのです。要するに、トラブルに対して公正公平に解決を与えるというのが、実は時の権力者の最も大事な仕事だということは、日本のこのような例でもわかります。イギリスでも同様で、国王が任命した裁判官が真っ先に解決を迫られたケースは、実は土地を巡る争いなのです。土地の相続を巡る争い、土地の境界の争いもそうですけど、とにかく土地絡みの争いにどういうふうに国王やその裁判官が解決を与えてきたのか、その積み重ねで法が形成されていく歴史があって、イングランド法は不動産法がベースになっています。そこをきちんと理解せず、避けて通っていたのでは、イングランドの法のことはよくわからないということを、コロナ禍の最中に思い至りました。私が大学院生の頃は、英米の古い時代の教科書や研究書は図書館になく、マイクロフィルムで取り寄せていました。しかし今では、データベースで英米の古い時代の教科書や研究書を閲覧したり、それらのPDFファイルを瞬時にダウンロードしたりすることができるようになり、研究条件はかなり改善されました。そこで、最近では、そういうイングランドの少し古い時代の不動産法に関する教科書や研究書を少しずつ読んでいます。とりわけ、これまで契約絡みのことを研究してきたので、不動産取引の過程で行われる不実表示に関心を寄せています。事実に反することを言って契約を結んで、後になってそのことを理由に契約を取り消せるかという問題がありますが、日本だと詐欺による意思表示ということで、騙して、たとえば、この土地は、地下鉄が通って値上がりするから買いませんかと言って売るわけですが、その意思表示をした肝心の私は内心ではそんなことはないよ、それは嘘だよと思って契約を結ぶわけです。これは詐欺による意思表示で、詐欺を働く人には、少なくとも自分の発言が事実に反しているという認識、つまり故意がなければなりません。これに対して、イングランドでは、契約を締結する際に不実表示をした人が、自分の発言が事実に反していることを認識していなくても、その発言が結果として事実に反しており、かつ、重大なものであれば、不実表示を理由に契約を取り消せます。そういう判例上のルールが、ちょうど19世紀の頃にある事件で確立しましたが、その流れをもう一度洗っています。日本でも、契約を締結する際に不実表示が行われた場合に、そのことを理由に契約を取り消しうるものとする規定を民法に盛り込むべきである、という提案が一時なされていました。日本とイングランドと、不実表示をして相手に契約を締結させた場合において、ルールの適用の仕方や救済手段の内容が、同じ「不実表示」と言ってもどこか違うのではないか。それをもう一度、判例を見て考え直していきたいと思い、ポツポツと取り組んでいる状況です。

 

――最後に学生に向けてメッセージをお願いします。

皆さんが今勉強している法律学について、勉強していることに意味もあるし、それに対して誇りも持ってほしいなって思います。法律学は、無味乾燥どころか、実はとても奥行きのある、面白い学問です。とはいえ、その面白さはすぐにはわからず、しばらくいろいろなことを幅広く勉強してもらわなければなりません。神戸学院大学法学部にはいろんな分野の先生がおられます。法学部の先生方は、皆さんが法律学や政治学についてもっと知りたい、もっと勉強したいと求めれば、真剣に相手になってくださるはずです。4年間、そういう環境をフル活用して、地道に勉強して欲しいです。この規模の大学の中では、本学の図書館は蔵書が充実しています。他にもやろうと思えばいろんなことを学び、取り組むことのできる環境があります。ぜひ積極的に勉強にも、それ以外のことにも、取り組んでもらいたいです。

 

2022年6月17日実施

聞き手:藤川直樹(法学部准教授)ほか法学部1年生有志


 

   
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