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学生インタヴュー:春日勉先生(刑事訴訟法)

法学部1年生有志が春日勉先生〔教授・刑事訴訟法〕にインタヴューを行い、これまでの研究と現在の関心を伺いました。

――春日先生は長野県のご出身で法学部に進まれました。法学部に進学された決め手はなんだったのでしょうか。

 父が高校の社会科の教員で政治経済や世界史を担当していました。それで私も中学生ぐらいから新聞を読むことが日課になりました。新聞を読んでいるうちに社会の出来事にすごく関心を持つようになりました。ちょうど高校生のときリクルート事件という、政・財・官を巻き込んだ政治的な汚職事件がニュースで報道されていました。著名な政治家や財界のドン、そうした人たちが、当時一般の人たちが手に入れることができなかった未公開株を、リクルート側から譲渡されて数千万円の利益を得るというような事態が発生した。国会での審議は、このリクルート疑惑を解明しようと非常に揺れていた。当時、リクルートといえば知らない人はいないほどの大企業で、その事件に関わった政治家や財界人も有名な人でした。そんな人たちが、なぜ疑惑をもたれてしまったのかということにすごく関心がありました。
 もう一つ、私が法学部に行こうしたのはロス疑惑事件の報道でした。1980年代にロサンゼルスで起こった女性の殴打・銃撃事件に絡んで、その夫が犯人ではないかという疑惑で非常に話題になっていました。マスコミが連日その夫を追うというか、その人の私生活だとかそれまでどんな商売していたかとか、どんな人物だとかを報道していました。当時のワイドショーって今よりもずっとしつこかったのです。突撃インタビューみたいに待ち伏せをして、そこで本人が出てきたところをカメラで撮ってそれを報道するとかね。ロス疑惑事件はアメリカで発生した事件だけれど、日本の検察が女性殺害事件として立件して、東京地裁で裁判が始まった頃だったと思います。私は、すごくこのニュースに関心を持ちました。自分でもたくさん新聞記事を読んで、裁判の様子を調べたりしました。高校のときに夏休みの課題で「ロス疑惑について」っていうようなレポートを書いたこともありました。それからもずっと、裁判は続くことになったのだけれど、裁判が始まった初期の頃だったと思います。そんなことが私を法学部に向かわせます。
 それから、当時、私達は団塊ジュニアと呼ばれて、生まれて子が多い時期の子どもたちだったのです。だから何でも競争が激しかったのです。受験もそうで、やっぱりうまくいかないことがたくさんあった。「競争、競争」でやって、私もそうですけれども、うまくいかない。どうして法学部に入ろうと思ったかというと、周りから法学部なら就職先の選択肢が広がると言われたのです。大学に進学した1年生の4月に民法の先生が僕らに向かって、「もう君達は就職には困らないね」って言ったのを印象深く思い出します。「やっぱりそうだったのかな」って当時思ったのだけれど、4年後に本当にそうでしたよ。バブルの最後の頃だったと思いますが、たくさんのOBから声がかかって、一緒に食事しようと言われたり、金融機関に面接に行くとOBがいて次々と係長・課長・部長級に会わせてくれるのです。そして支店長面接をやって1日で内定が貰えるとかね、そんな時代だったのです。今では考えられない。今はもうインターンシップだとか、会社説明会だとかいうことがね、必須ですよね。 

――法学部への進学は就職が良いことが一つの理由だったということですが、その後就職されずに大学院に進学されました。

 〔学部の〕当時、私はゼミナールで被疑者の人権について調べていたのです。そのときに代用監獄制度に関心を持って、これは一体何なんだ、と思ってですね。代用監獄制度というのは、本来は逮捕された被疑者は逮捕後72時間以内に裁判官の下に行って勾留質問を受けます。勾留質問というのは、これからも継続して身体を拘束する必要があるかどうかを、「逃亡のおそれ」だとか「罪証隠滅のおそれ」だとかを裁判官の面前で確認する手続です。本来、勾留質問後は被疑者を「監獄」に収容しなければならないということになっているのです。監獄というのは、法務省管轄の拘置所のことを指しています。拘置所は警察留置場とは異なる場所ですよね。拘置所に収容しなければならないところ、何故か勾留質問の後も被疑者は警察に戻されて、警察の留置場にそのまま留め置かれる。逮捕から起訴まで23日間ですから、そのまま留め置かれて、その間に取調べがガンガン行われる。これが代用監獄制度の問題点だと言われていたのです。
その代監問題について調べていくうちに東大の平野龍一先生の論文(「現行刑事訴訟法の診断」団藤重光博士古稀祝賀論文集第四巻、昭和60年,有斐閣)を読みました。その論文にはこんなことが書いてあったのです。――アメリカの刑事裁判は、無罪や有罪を決めるところだ。日本の刑事裁判は、いわゆる捜査段階で得られた結論を、つまり有罪という前提の結論を確認する場所だ。白黒を決めるのがアメリカ。捜査機関が、証拠の取調べ等を通じて出した有罪という結論を確認するのが日本の刑事裁判だ。だから日本の刑事裁判は絶望的だ、と。――とにかく大学に入ってから、日本の刑事裁判は形骸化しているとか、儀式化しているとか、つまり形だけの裁判をやっているじゃないかということを痛感しました。当時、「ヒラメ裁判官」といってね、私も裁判所で何度も傍聴していましたから、主任の判事がなんとなくやる気がなくて居眠りをしている様子を見ていたのですけど、弁護人もほとんどが国選弁護人で、やる気がないのです。国の費用で付された弁護士で、私選弁護人ではなくて国選弁護人なので、やる気がない。一番やる気があるのは検事でしたよ。自分たちが調べたことが信頼できるという説明をしようとする。何度もそのような様子を裁判傍聴して感じていました。なぜ裁判官は裁判の様子を見てないかっていうと、裁判を終えてから自分の事務所に帰って調書を読めば良い。記録、つまり書記官が整理した公判記録を読んで判決を書く。裁判は一つの事件で長くかかっていましたので、頻繁に裁判官が変わるのですよね。頻繁に裁判官が変わるってことは、前の公判の証拠調べとかを直接見聞きしていない裁判官が判決を書く。これもおかしなことで、そんな様子を目の当たりにしたのですよね。これはおかしいじゃないかというふうに、すごく当時は感じていましたね。
 私は東京にいましたから、当時、東京周辺のいろんな大学にちょっと武者修行に出てですね、著名な刑事法学者の授業に入り込んで、そして授業の終わった後先生のゼミナールにぜひ参加させてくださいとか頼んでいました。そうやって武者修行をしながら、自分が自身で調べたことが他の大学生からどう評価されるのかとか確かめていました。当時は、刑事法の問題だけじゃなくて人権全般に関心があったのですよ。だから、アムネスティインターナショナルの本部に足を運んでいました。国連人権B規約に基づく政府報告制度といって、国の人権状況について4年に1回、国連人権条約を批准している国が人権規約委員会に報告しなければならないことになっているのです。そこで日本政府は常に日本の特に刑事人権状況については問題がないと強調していたのです。それに対して、国連の人権規約委員会がそうじゃないだろうっていうようなことで、代用監獄の問題を取り上げてみたり、死刑を存知している問題を取り上げてみたりして批判していました。人権問題全体に関心があったので、私はアムネスティインターナショナルに行ってはシンポジウムに参加したり、事務局に相談して一緒に活動してみたりね、そんなこともしていましたね。私、ちょっとした刑事裁判のマニアっていうかね、頻繁に傍聴していましたし、裁判官に「君また来たの」みたいなこと言われたことがあります。「またいるじゃん」って(笑)。
 本当にいろんな事件を見ながら、裁判というものがどんなふうに展開していくのかっていうことを見ていました。また、当時からいろいろな先生の論文を読んでいました。いろいろな論文を読むってことは、いろいろな先生のことを知っているってことです。4年生になって、就職活動もしましたけれど、周りの刑事法の先生たちから、「君はもう少し勉強を続けた方がいいのではないか」というようなことを言われていました。私もどうしようかなと思っていたのだけれど、武者修行に行った先の先生たちにも何人かに「大学院に行きたいのですけれど」といって相談をしました。「希望するのは自由だからどうぞ受験してください」って言われて、いくつか大学院も受けて合格したので進学をしました。そのときに、修士課程2年で辞めるのか、あるいはそのまま大学に残って研究者になるのかっていうことを聞かれたのです。私は、できるのであれば大学に残りたいと先生に伝えました。それで研究者を目指すことになったのです。 

――九州大学大学院に進学されてからは、「被疑者弁護」を一貫して研究テーマにされています。

 当時、福岡県弁護士会には、「当番弁護士制度」といって、いわゆる起訴前段階の刑事弁護の制度を定着させてこれを法制化しようとする動きがあったのです。九州ですから、私は弁護士との人たちと一緒になって、「当番弁護士制度」の活性化ということに関わっていくことになったのですよね。
なぜ起訴前段階、いわゆる被疑者段階の弁護が必要かというと、それは要するに、取調べ段階で取られた調書がそのまま日本の裁判では証拠として採用されて有罪判決に至っている問題があったのです。これがまさしく刑事裁判の形骸化であって、東大の先生が「絶望」発言をした、まさにその核心的な部分なのです。起訴前の弁護を何とかしなければ、これは大変だぞと。つまり、逮捕後は被疑者に弁護士がついてない。ほとんどの刑事事件に弁護士がついてなかった。起訴されるまでは。ひどいのになると起訴されて第1回公判に初めて弁護士と被告人が顔を合わせる。そうさせないために、まず弁護士会が手弁当で、被疑者が逮捕されて24時間以内に1回目の接見にいこうじゃないかということで「当番弁護士制度」というものを立ち上げて、検察庁や裁判所、そして警察にもお願いしてビラを貼ってもらうようにした。「逮捕されたら当番弁護士へ連絡してください」と。そうやって徐々にそれが全国に広まっていった。大分・福岡で始まった「当番弁護士制度」ですけれど、それがもう数年で全国の弁護士会に広がって、どこの弁護士会でもやるようになった。しかし、当時は、警察や検察は非協力的だったのですよ。裁判所は初めから結構協力的だったのですけれど。ところが全国に広がって認知され始めた。そうすると、警察も、警察署の取調室に貼ってくれたりして、徐々にですけれど協力するようになってきた。
逮捕後、24時間以内に弁護士が被疑者に会いに行くことが何故大事かというと、まず被疑者は、まさに突然警察や検察によって一方的に逮捕されてこの容疑で逮捕すると、このことについて話をせよと言って、もうほとんど一日中ですよね。朝から晩まで、取調室で取調べを受けるので、当時はまだ録音録画もないですから密室の中で取調べを受ける。その取調べが勾留質問後もずっと続くわけですよ。勾留質問の後は、被疑者は本来拘置所に連れて行かなきゃいけないのに、代用監獄制度があったために再びその警察留置所に連れてこられて取り調べを受ける。そうすると、人間というのはどんな人もそうだけれど、長時間無理な取調べを受ければ、やってないことも「やった」と言ってしまうんですよね。人は精神的に弱い生き物ですから。代わる代わる刑事がやってくるのですよ。優しい言葉をかける刑事、非常に強い言葉をぶつける刑事、こうやって巧妙な手段をとりながら警察は取調べをするのです。最悪なのは、やってないのにやりましたと言わしてしまう。これがやっぱり、冤罪というか、間違った裁判の原因になっていた。だから逮捕後24時間以内に弁護士が被疑者と面会して、最低限の権利とこれから警察の取調べを受けるにあたってどういう姿勢で臨まなければならないのかということをアドバイスするのですよ。そして黙秘権なんていう権利があるっていうことに逮捕された人は驚くわけですよね。取調べで自ら事件について話さなくていいという権利ですよね。だから黙秘しますと言ってしまえばいい。黙秘することを強制するわけではないけれども、言いたくないことは話さなくていい、下手に話すと不利な原因にもなるから話さなくていい。そんなことを弁護人は最初の接見でアドバイスするのです。また、家族に対して何か伝えたいことあるか、伝書鳩的な役割を果たすわけです。そうやって弁護人が入ることで、わりと落ち着いて警察留置場で過ごすことができる。そんなことが一般的になっていったのです。
 私は刑事弁護という課題に関してすごく熱心に取り組みました。当時、福岡の西日本新聞も「容疑者の言い分」という報道を始めていました。それまでは、報道機関は一方的に逮捕された人を犯人視して、犯人はこんな悪い奴だ、こんな生活していたとか、過去にこんな事件を起こしていたとか、そんな報道ばかりでした。なぜかというと、警察を取材する記者は、「番記者」といって、常に警察の自宅の前に立っていてその事件の情報について警察が自宅に帰ったところをキャッチして話を聞く。つまり警察と信頼関係がないと話が聞けないのですよ。そうすると警察から得られる情報に基づいて報道するでしょう。それは一方的な報道になるのです。それを、西日本新聞社はね、「容疑者の言い分」という特集記事を作って、毎回事件については、被疑者がこんなこと言っていますと警察の話と両方載せるということにしたとかね。そうやって捜査機関の一方的な捜査を何とかしよう、そうでなければ証拠が捏造されたり嘘の自白によって有罪が言い渡されたりする。それを回避するための起訴前弁護の活性化ということで、私はかなり当時から弁護士の人たちと一緒に活動しましたね。学会がそういうテーマで分科会が開かれたりしていましたし、日本弁護士連合会の本部がそういうテーマでシンポジウムを開いたりしていました。私もそこへ行って、まだ大学院生でしたけれど、話をするということをしていましたね。特に「ゼロワン地域」といって、日本は、都市部以外はほとんど過疎地域ですよね、過疎地域には弁護士がいないのですよ。そうすると、そういうところで事件が起こるとね、当番弁護士もなかなか逮捕後24時間以内には被疑者と面会できない。例えば九州なんか対馬とか壱岐とかさ、そういう島が沢山あるわけですよ。そこにどうやって弁護士が会いに行ったらいいのかとかね。若手の弁護士をそこに赴任させるために弁護士会が支援して、事務所を設立するお金を支給して、当番弁護士制度をちゃんと実現しようといってやったりね。そんなことをしていました。私も九州の弁護士の「ゼロワンマップ」というのを作ってその現状を弁護士会で発表するとか、そんなことをしていましたね。
 大学院では研究者になるために徹底した指導を受けました。要するに知識があるだけでは駄目で、今の日本が抱えている問題・現状をいろんな観点から分析する力がないとなかなか研究者としては成功しない。例えば、どうして今、日本の裁判がこんなふうになってしまったのかっていうことを、歴史を紐解きながら調べてみるとか、あるいは海外の事情と比較しながら調べてみるとか、あるいは私なんかは特にそうだったんですけれど、日本の刑事裁判に影響を与えたフランスやドイツの制度が当時、明治時代ですよね、どんな法律であったのか、あるいは当時はどういう解釈がなされていたのかということを大学院の頃に調べていました。明治初期、フランスのボアソナド博士が来日して東大や法政大学の前身である東京法学社で教え始める。そんな状況の中で、「治罪法」というものを――フランス刑事訴訟法ですよ――日本に紹介するんですよね。初めての近代法ですよ、日本にとっては。陸奥宗光という大臣がいて、その人がまとめた英文の翻訳――確か英文だったと思うのですけど――それを読んだような気がする。恥ずかしながら、私、原文ではなかなか読めなかったのですよ。フランス語の原文では。私がいた大学院は、とにかくそういう歴史的な資料や海外の文献がすごくあったのです。沢山揃っていたのです。地下1階2階ぐらいまで書庫があって。ずっと地下で暗い明かりの下で本を開きながら読んでいました。

――当時の研究室の雰囲気はいかがでしたか。

 大学院での教育っていうのは、例えば刑事訴訟法専攻だから刑事訴訟法だけ学べばいいっていうわけではない。つまり刑法も、刑事政策もみんなできなきゃいけないっていうような方針だったのです。それで徹底した研究者養成教育を受けました。まず東大の『法学協会雑誌』を徹底的に分析しましたよ、東大の先生たちが書いた判例評釈を。東大の人たちがどういう考えを持っているのかっていうことを分析していました。そういう授業ですよ。あと、ベッカリーアの『犯罪と刑罰』ね。これは英文でしたけど、みんなで読みました。刑罰とは何かとか、犯罪とは何か――罪刑法定主義に関わる問題ですよね。私が説明できなくて黙っていると、先生が立ち上がってゼミ室をでて行ってしまうんですよ。中途半端な報告をすると怒って居なくなってしまうのです。また30分後に戻ってきて、来週までにやり直せという。翻訳をしても意味がないって。何のためにここで報告するのかと。いや、当時も厳しかったのですけど、もう1回やり直せって、そう言って2回も3回もやり直させられるのです。そういう思い出がありますね。大学院の演習は、修士課程の大学院生から博士課程の大学院生まで全員でしていました。そうすると修士課程1年生からみると博士課程の3年生はとても大人に見えるのですよ。話している内容や指摘する事柄がものすごく大人なのです。私なんかもう学生に毛が生えた程度で。そうやってかなり鍛えられましたよね。
 当時はハンセン病の問題についてもね、かなり熱心に勉強しましたよね。明治時代からあった「らい予防法」というのが1953年に新しい憲法のもとで改められて、そのときにもそういうハンセン病に罹った人を強制隔離させるっていう法律ができて、そのためにハンセン病患者の人たちあるいはその家族の人たちは社会的な差別を受けて、離島みたいな所に強制的に連れていかれて。この近くだったら岡山にある邑久光明園とか長島愛生園とか、明石から車で3時間ぐらいのとこにあるのですけど、連れてこられた方は終生そこで過ごすことになる。死ぬまで社会に帰ることができない。国の強制隔離政策ですよ。そして「無らい県運動」といって、県から「らい」を撲滅するというようなキャンペーンを盛んにして、市民を巻き込んでいくわけです。そうすると、そういう患者さんを見つけると、市民が行政に密告して、あそこの家にはらい患者がいるとか言ってね。そういうことでかなり問題になっていたのですよ。僕ら大学院のときに、弁護士会が本格的にこの強制隔離政策について調査を始めました。九州にもハンセン病療養所がありましたので、そういうところに先生とともに行っては調査していました。私が2004年に神戸学院大学に赴任して以降10年間、ハンセン病シンポジウムをずっと継続してやったのですよ。10年間、ハンセン病シンポジウムを開催できたのはとても意味のあることでした。
 大学院に入った当時は、陪審制度を何とか実現できないかということで、大学の先生や弁護士の人たちの間で議論していたのですよ。陪審制度をなぜ導入するのかって言ったら、いわゆる職業裁判官だけの裁判では冤罪が後を絶たない。真実を見極める目っていうものは、本来は様々な経験様々な世代の人たちが集まって養うことができるはずだと。これはイギリスやアメリカの歴史的な教訓の中ではっきりしていると。日本にもこの陪審制度を導入しようという動きがあったわけです。そして、当時、司法改革という議論がなされるようになっていて、これは元々行政改革から始まった日本のいわゆる三権に関わる改革の中の司法改革という部分です。例えば、日本の法曹人口を増やして、もっと裁判を活性化させようという議論が別にあったのですよ。当時の自民党や政財官から声が上がって、司法というものをもう少し社会の要にしていこうというようなそういう動きがあった。そこでロースクールを作って、まず法曹を養成しよう、そして法曹人口を増やそう、そして当時は小泉内閣のもとで規制緩和というようなことが強調されていた。いわゆる護送船団方式、大企業を中心に、政府の庇護の下にあった経済というものが、バブル崩壊によって崩れていったので、今度は規制緩和をして、どんどん力のある企業には成功してもらおうと。そうやって社会が変わっていけば、紛争も多発するだろう。そしてその紛争に対して適切な対応をするために、法曹人口を増やして、法律家を養成しよう。というような議論があったのです。
 日弁連、大学の先生たちは、司法改革の機運に合わせて、いや今必要なのは、例えば、刑事裁判から冤罪をどうしたらなくすことができるか、そこが大事なのだと。だから、法曹人口を増やすのではなく、裁判システムそのものを見直そうじゃないかとか、そういう議論もあって。だから当時は戦後すぐに起こった事件、死刑四大再審無罪事件という、免田事件とか財田川事件とか、どうして間違った裁判によって死刑が言い渡されているのかということ、こんなことが非常に問題になっていました。それは警察の取調べで取られた供述調書を鵜呑みにする裁判官がいるからだと。つまり警察の嘘の調書っていうものを見抜けないような裁判官の姿勢であるとか、検察官の主張を一方的に採用する裁判官だとか、これによって冤罪が起こっているではないかということで陪審制度を導入しようというような機運が高まっていく。そして、被疑者段階で日弁連が手弁当で定着させた当番弁護士制度を国の制度として採用してもらおうじゃないかという議論があったのですよ。
 司法改革の議論が非常に盛んに行われる状況の中で、皆さんご存知の通り、裁判員制度というのができました。これは日弁連や大学の研究者が主張していたような陪審制度ではなかったのですね。陪審制度というのは、12人の陪審員がいて1人でもノン、グレーだと、これはシロの可能性があると言えば無罪にしなければいけない、そういうシステムです。でも、裁判員制度は、多数決によって有罪か無罪かを最終的には決められるシステムです。全くその質が異なります。市民が参加するとはいえ質の異なる制度ができてしまったその背景には、最高裁や特に法務省・警察庁が陪審の導入に強く反対したのです。裁判の目的は、市民が裁判を通じて主権者としてよい経験をするためにあるわけではないのです。逮捕されて起訴されて裁判にかけられた被告人が、有罪なのか無罪なのかを決めるとても大事なものであり、そこの部分で手を抜くようなことがあれば、冤罪に発展していくわけですよ。だから本来は被告人の防御権をどう保障するかっていうことが、刑事裁判のテーマでなきゃいけない。であるはずなのに、いつの間にかね、刑事裁判に国民が参加することは司法における国民主権の具体化だなんていう主張がでてきたのです。つまり、そうやって国民が刑事裁判に参加することが民主主義の一環であると。今までは職業裁判官に任せてしまっていたけれど、国民参加っていうのは本来必要だったのだと。でも、私からすればそうじゃないだろうと。そんなことは刑事裁判に求められていない。大事なのは、被告人が犯人かどうかということを、しっかりと適正な手続きに基づいて判断しなければならない。

――刑務所の処遇改善や元犯罪者の更生についても研究されています。

 大学院の頃から方々の刑務所に足を運んで、刑務所の処遇の実態っていうのもかなり調べていました。どうしたら犯罪を犯した者を社会復帰、更生させることができるかっていうのは昔から関心がありましたね。当時から日本の刑務所の処遇はとても問題だと言われていた。要するに非常に閉鎖的で、中で何をしているかわからないって。2005年に「刑事施設処遇法」が施行されましたが、当時は明治41年にできた「監獄法」がまだずっと有効だった時代ですよ。だから、刑事施設はすごく閉鎖的で外からそんな簡単に入れなかったし、中では施設長のいわゆる懲戒権っていうのがすごく濫用されており、問題がいろいろとあったのだけれどそれがそんなに明るみに出なかったのです。ところが、名古屋刑務所で起こった事件(受刑者が刑務官によって直腸に消火用のホースを当てられて暴行を受けた事件)が起こったのです。それがきっかけで全国の刑務所でいろいろな問題が発生しているということが次々と新聞で報道されて、刑務所の運営の見直しという議論に繋がりました。神戸学院大学に赴任してからは刑務所の視察委員になって、今度は専門家として、中の様子を調査するということになっていったわけです。

――長期海外研究員としてカナダに行かれてからも同様の研究をされました。カナダを選ばれたのはどのような理由によるものであったのでしょうか。

 どうしてカナダに行こうと思ったかというとね、カナダには、クリミナルコートあるいはドラッグコート、コミュニティコートなど、日本に無い「問題解決裁判所」がたくさんある。元々、ブリティッシュコロンビア大学のロースクールに設置されていた犯罪学研究所というところに手紙を書いて、日本の刑事施設処遇の実態はこうなっている、日本の中では、こんな議論があるんだけれど私はカナダが犯罪者の社会統合について研究が進んでいると聞いたので、ぜひお宅のロースクールで研究させて欲しいと、そういう手紙を先方に書いたんですよ。犯罪学研究所の所長宛にね。そしたら返事が来て、あなたの考えはよく解ったので受け入れてくれるということで、早速、在外研究にでかけました。
 でも、その間、私はやっぱり私らしい研究スタイルで、文献を読むっていうよりは、とりあえず可能な限り刑事関連施設を回ろうと思って、向こうの法務省にあたる機関に手紙を書いて、こういう研究者だけどもぜひお宅の刑務所を視察させて欲しいと頼んでね、そしたらたくさんの書類を書かされて、まず視察目的から始まって、私が本当に研究者かどうか、いろいろ履歴書みたいのをね、リサーチペーパーともう一つの履歴書みたいのを出させられて、大学に在籍しているということの証明とかね。いろいろと提出しましたよ。それから3ヶ月ぐらいして、カナダの法務省にあたるところから刑務所というのは、いろいろとプライベートな問題を抱えていて、本来は外部の者に原則見せないことにしているけれども、あなたが研究者だということで特別に見せてあげるみたいな感じでやっと返事が来たので訪問できました。
 行って驚いたことに、カナダの刑務所は日本とはまず規模が違うわけですよ。私が最初に訪問した刑務所の様子はすごく自由で、いわゆる軽犯罪の人たちが入る刑務所であったということもその原因だと思うんですけれど、いわゆる受刑者たちがそんなに拘束されていないわけですよ。日本だったら刑務官の指示に従って行動するし、居る場所だってその時々の時間によって決まっているわけですよ。ところがブリティッシュコロンビア州の初めて訪問した刑務所はとっても自由で、中に入ると受刑者も刑務官も私服を着用しているので、誰が受刑者で誰が刑務官かわからないところだったのですよ。最初の印象で、「とっても自由ですね」って言ったのですけれど、そのときに私に説明をしてくれた職員の人が、「日本はどうなっているのか」って言うので、「いや日本はこんな自由じゃない」って答えました。「でも社会復帰させるのだろう、受刑者を社会復帰させるのだったら社会に近い形で処遇しないと駄目じゃないか」って言われたのですよ。
 そこは女子刑務所で、女の子が私の手を引っ張って、自分の部屋を見て欲しいといって、私をそこに連れて行ったのですよ。狭い部屋ですよ。机があって、その机の上にね、家族だとか友達の写真がいっぱい貼ってあって。「どう、素敵でしょ」って私にいうの。「素敵だね」って返したら、「私、気に入ってるんだ」と言って。案内してもらううちに、そこに購買所があり、郵便局のような施設があり…。小社会がそこにあるわけです。つまり、社会人として自立させるっていうことが大事で、犯罪って確かに社会の掟を破ったから刑務所に入れられているのだけれど、その犯罪に至る背景や原因っていうのは、いろいろあるわけですよ。家庭内でDVを受けたストレスがあったために窃盗を繰り返すようになったとかね。そういういろんな背景があって、特に女の子なんか、社会的弱者であるっていうことが共通している点ですね、日本でもアメリカでもカナダでも。社会的弱者、特に薬物なんか手を染める人たちはそうなのだけど社会的弱者だ。そんな人に罰を与えてもあまり意味がない。だとするならば、彼らが社会に出て自立できるように、自分で考えて行動するということをさせる、これが必要なのだっていう考え方があるんですよ。これがカナダの社会統合の一番の核になった考え方。私が論文で読んでいたことがここで行われているなと思ったのですよ。
 印象に残っているのは、虐待を受けた女の子が、同じように人間から虐待を受けて連れてこられた犬の世話をするのですよね。「どうしてそんなことをするのか」って言ったら、女の子の課題はこの虐待を受けた犬を飼いならすこと、そして犬の状態を落ち着かせることだった。それを課題として彼女に与えた、と。女の子にはそれしか課題が与えられない。方法も何もわからない。だからいろいろなことを模索しながら自分でいろいろやってみるわけですよ、犬に。私達が訪問したときにはその犬たちは凶暴で、もう人間を信用してないから檻の中から飛びかかってくるような様子だった。その女の子は本当にそういう犬に対して試行錯誤しながら、いろいろと試みて、遂に犬から信用されるようになったのですよ。職員から鍵を開けるぞって言われて大丈夫かなと思ったのですけれど――大型犬ですよ。カナダは犬を飼う文化ですから、一人暮らしでも大型犬を飼っているのですよ――放たれた犬がね、女の子に向かって、こう、抱きつくのですよ。凶暴なのですよ、元は。人間から虐待を受けて、餌も与えられずネグレクトにあい、保護されて刑務所にやってきた。刑務所ではそういう犬を一応選んで連れてきているのですよ。受刑者の訓練のためにその犬がその女の子から世話を受けて、その女の子を信頼して、そしてそういう態度をとる。これが要するに、自立するっていうことだ。要するに本人が考えて行動したことで成長した。それが必要なのだ、彼女たちには。今までは社会の中で疎外されて暮らしてきた。あんまり自分から何かしようと思わなかった。だから、こんなことになっちゃったので、もうここで学んだことは彼女ら自身が強く生きることだと、それは自分たちで考えて行動する。この経験は彼女にとってはとても大きな経験になるだろうというふうに説明されたのを覚えています。
 そのシステムって、今ね、日本でも採用されて一部の刑務所でやっていますよ。私が刑務所見学に何回か行ったときに、日本の法務省から役人が来て調査していました。だから、やっぱり、そういう私と同じ問題意識を持ちながら、どうやったら刑務所での処遇を改善できるかということを調べに来ていたんだと思う。これは日本の刑務所ではなかなか得られない経験ですよ。昔から日本の受刑者はロボットみたいに刑務官の指示に従って動くっていうのが基本になっていましたから。それをしなければ懲罰の対象になるわけですよ。だから、そうじゃないのだということをね、私も視察委員をしていろいろと刑務官と話もするんだけど、刑務官もいろいろと考えていて、精神疾患にかかった受刑者が、常に奇声をあげたり壁を叩いたりして、協調性なんか全くなくって刑務作業もできない状態だったので、いつも独房に入れられている、そういう受刑者がいたんだけど、刑務官はその受刑者に対して種を与えて、何ヶ月か花の世話をさせたって。そしたら種から芽が出てね、茎が伸びて花が咲いた。それを見て、だいぶ受刑者の精神状態が落ち着いたって言うのですよ。それは生命だとか、生き物が成長していく姿を感じることで、気持ちが落ち着いていたのだと思うのですよ。
 さっきの犬の話と共通するなと思って聴いていたのですけれど、そんなことをカナダでは経験しましたね。ドラッグコートっていう裁判所がアメリカやカナダにはあって、要するに、薬物犯罪で逮捕されて訴追されている人たちね。向こうでは薬物犯罪はそれほど大きな犯罪とは考えられていない。一般で犯されるような放火とか強盗とかそういう事件とは違うものだという位置づけがある。むしろ、依存症だから病気だっていう考え方だよね。だから、そういう問題で逮捕されて訴追されてきた犯罪者に対しては、裁判所も初めから刑罰を与えるっていうことをしないわけです。裁判所に連れてこられると、要するに、彼らに一定の責務、責任を負わせて、その責任を全うしたときには、刑事手続きから逃れられることができるようなシステムになっているのです。私が最初にドラックコートを訪問したときには、その責務を全うした人たちの、「おめでとう会」をやっていたのですよ。そこのドラッグコートを訪問したときに裁判官が私に向かって「今日はあなたとても良いときに来た」と。「これから行われることはとても嬉しいことだから、一緒になって祝ってやってね」というようなこと言われたのですよ。そしたら10人ぐらいの受刑者が次々と法廷に入ってきてね、修了証みたいのを受け取ったのです。そして入ってくるときにね、そこには裁判官、検察官、そして弁護士、社会福祉士や保護観察官、関係者がみんな勢ぞろいして、拍手で迎えるのです。傍聴席の私達も一緒に。そして、法廷には花だとかが飾り付けられていて。「よく頑張りましたね」と。「この数ヶ月間あなたたちは本当にしっかりやり、頑張りましたと、これであなたたちに処罰を科すということはありません」というようなことを言うのですよ。何をしたのかというと、社会奉仕活動ですよ。要するに、社会に償うっていうか、バンクーバーのイーストサイドっていうところにドラッグコードがあるのだけれど、ドラッグコートの周りでゴミ拾いをしているおじさん、おばさんたちがいっぱいいるのですよ。そこの人たちがゴミ拾いなどの社会奉仕活動をやって、その期間は薬を使わない、薬を我慢すると。それができた人たちに対して、裁判所が表彰するわけですよ。
 もう一つ、ファーストネーションズコードっていうのがあるのですよ。ファーストネーションズ、これはオーストラリアではアボリジニとか、アメリカではインディアンと呼ばれている人たち、つまり先住民のための専用の裁判所がある。私はここにすごく関心があって、向こうに行ったときに何回か足を運んだりしたのだけれど。私が訪問したときにはラウンジっていうか法廷、日本と違って法檀なんか無いのだけれど、裁判官がわたしたちに向かって、中に入りなさいと言って円を描くようにみんなで座って、そこに裁判官も検事も弁護士も、そしてその被告人もいて、先住民の長老みたいな人もいました。あなたがしたことを振り返りなさいということで、裁判官がその被告人に話をして。その前にね、1人1人自己紹介しました。そういえば自分も自己紹介させられた、どんな人間かっていうことを。だからみんなで自分のことをさらけ出す場なのです。そしてあなたの罪に向き合いなさいって言って被告人が自分の生い立ちや、自分が犯罪に至ったことを話す。先住民だから非常に社会的な差別の中で成長しているってことがあって、社会的弱者ですよ、弱者でこれはもうヨーロッパからイギリス人やフランス人が北アメリカに侵攻してきて、植民地化した時代のいわゆるひ孫とか、そのさらに孫とかにあたる人たちなのだけれど、未だに強い差別を受けてるわけですよ。見た目も全くヨーロッパ系カナダ人とは違いますよ。そういう人たちが犯罪を起こしやすい社会になっている。例えば、カナダ社会の中に黒人は4%しかいないのに、実際カナダの刑務所全体では19%も黒人がいるとかね、そういう調査があるのですよ。つまりそれは黒人に対して、そういう社会が、非常に冷たく差別的に対応して、さらに警察も黒人というだけで疑いをかける。だから、次々と犯罪者になっちゃう。そういう差別が黒人にも先住民の子孫にもあったわけですよ。ファーストネーションズは特にその先住民独特の文化や考え方があるので、ヨーロッパ人が持ち込んだ刑事裁判とは別の裁判を受けてもらう。大事なのは、先住民の人たちに対して敬意を払うことです。長老が最後にこう言うのです。この被告人の今後のことについて私が責任を持つと。被告人自身が説明できなかったことも含めて、こういう人物で、こんないいところがある、家庭を大事にするとかね、そんなことを言いながら、何とかここは刑罰でない方法をお願いしたいみたいなことを裁判官にいうのです。裁判官はわかったと言って、保護観察だとかいう方法を選ぶっていう話ですよね。
 先住民特有のそういうラウンドテーブルでそういう経験もしたし、仮釈放の場面に立ち会ったことも1回だけあります。日本で仮釈を決定するときには、仮出獄、刑務所を途中で出ていくっていうかね、満期の場合、仮出獄するときに質問タイムがあるのですけれど、そのときにね、一般の裁判と同じように、市民の人たちが希望すれば、それ見られるのですよ。それはバンクーバー市民じゃなきゃいけないのだけれど、半年以上バンクーバーに暮らせば見られたのです。私、ネットから応募して。そういうフィールドワークっていうか、経験中心にしてきましたね。
 この話をしていると研究活動ばっかりだって思うかもしれないけどそうじゃなくて、私、息子1人をね、カナダに連れて行きましたので、公立の小学校に入れるために、在外研究にいく前から、何度もバンクーバーに行って、教育委員会の方に直接訪ねていって、この子を公立の小学校に入れてほしいとお願いして、それが認められて本当にカナダ国籍の人しかいない公立の小学校に子供を入れました。そこには、いろいろな父兄がいました。バンクーバーは多様性の街ですからもちろん先住民もいるし、黒人もいるし、中には男同士で結婚している人、女同士で結婚している人も。向こうでは同性婚ができる。僕が仲良しになったのは、男性同士で結婚して子供が産めないので、子供を養子にもらって、その子がアメリカ人とオーストラリア人のミックスで、本人たちはね、1人は中国系カナダ人で1人は台湾系カナダ人、お父さんが昔、こっちに移民してきた人たちだ。養子にもらった子はオーストラリアとアメリカのミックスの子供で。その子と私の子が仲良しになったので、そのお父さんたちといろいろと話をする機会があったし、そういう日本にはあまり見られない多様性がね、社会の中に溢れていました。中には薬物依存症になってしまった親が社会福祉士に付き添われて子供を連れてくるとかね、そんな風景も見ました。
街の中は、とにかくホームレスの人たちが非常に多くて、バンクーバーのイーストサイドといったらホームレスの人たちがたむろしている、そんなところですよね。トルドーが首相になる前に、大麻を合法化すると公約していたので、私が滞在しているちょうど最中にね、大麻が合法化されたのですよ。日本では大麻を所持すること使用することこれも禁止されているのだけど。私、バンクーバー警察を訪問して、あるいはクリミナルコードで裁判官に対して、いろいろ大麻についてインタビューしました。私が一番印象に残っているのは、バンクーバー警察で「大麻をどうして合法化するのか」と聞いたのですよ。そしたら、カナダではタバコを吸っている人の70%は大麻も吸っていて、大麻はタバコとそう変わらないという認識であると。使い方を間違えなければ大丈夫なのだというのです。なぜトルドーが大麻を合法化すると約束したかというと、要するに、大麻もね、質や量によって強かったり、悪い物質が入っていたり、健康被害を起こす物も沢山巷に売っていたのですよ。だから国がそれを管理することで、量も質もしっかりと統一してコンビニエンスストアみたいなところで売ることで市民は安心して大麻を購入することができる。そしてタバコと同じように量を規制して使用させると。もう一つはねやっぱり闇の組織にお金が流れないようにするということがね、一つの政策でもあったのです。
 そんなことで合法化したとはいえね、昔からカナダ人は大麻を吸っていたので、合法化されたっていうのはそれほど大きなニュースにはならなかったです。ただ、日本ではすごくそれに対して過剰な反応をして、私がカナダにいる間も日本大使館から連絡があって、日本人はカナダに滞在していても、大麻を所持、使用すれば罰せられますというような注意が繰り返しなされましたよね。日本でもその後、大麻に対する取り締まりが厳しくなって大麻の検挙数が右肩上がりになりました。それは警察の政策の影響を受けているのです。大麻の取り締まりを強化しよう、という。バンクーバー、特にイーストサイドなんか歩いていると大麻の臭いが充満しているのです。こうやって吸殻をぽいっと捨てるのですよ。捨てたのがナップサックとかにちょっとでも入ると、日本の空港で検挙されちゃう。だから、そうならないように注意していました。
 カナダでは依存症になってしまった人たちに対して、要するにすぐに止めさせるというよりは、彼らに安全な方法で薬を打たせるっていうところから始めるのです。各地に協会だとかあるいはテントのような特設会場で、依存症にかかった人に声をかけたり、自らやってきた人に対しては、そういう安全に注射をできる、そういう方法を教えたりしながら徐々に彼らの支援を増やしていく。そして最終的には彼らが薬をやめて、職に就けるような支援をするということをやっているところがいくつもあるのです。それはアメリカの方がドラッグの問題は深刻なのだけれど、例えばロサンゼルスの市長がバンクーバーにやってきて、バンクーバーのNGOの組織の運営の実態を見聞するとかいうことがニュースになっていた。つまり、バンクーバー市から学ぶことがあるのだということですよね。

――有難うございます。伺いたい話もつきませんが、本日のインタビューはこれで終了とさせていただきます。

 

2022年6月22日実施
聞き手:藤川直樹(法学部准教授)ほか法学部1年生有志

 
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