法学部1年生有志が渡辺洋先生〔教授・憲法〕にインタヴューを行い、これまでの研究と現在の関心を伺いました。 |
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――渡辺先生は岐阜高校から早稲田大学の法学部に進学をされましたけれども、どのような問題関心で大学と学部を選択されたのでしょうか。まずは親元を離れたかった。首都圏、というよりも東京に行くことしか考えてなかったです。更に言えば、東京大学には行きたくなかった。何故か。父親から「行け」と言われてたからです。それがすごく嫌だった。因みに、父親から言われていたのは、文系じゃなかったです。理系です。「医学部に行け」って言われてました。それがとにかく嫌だった。かつ、私は数学は割と好きだったけど、理科は嫌いでしたね。はっきり言って、苦手でもあった。だから、そもそも医学部には向かない人間だし、関心もなかった。あと、理科の中でも、物理と生物が嫌いでしたね。化学も好きじゃなかった。物理はなんか胡散臭かったし、生物はそもそも好きじゃなかったですね。解剖とか嫌いだったし…。 他方で、政治のことには関心がありました。自分は要領も悪いし、頭も悪い。人一倍以上に勉強しないと人並みについていけないという自覚はすごくありました。そんな中で、世の中に出て、自分みたいな要領悪くて馬鹿正直な人間は、多分コロッと騙されるだろうっていう頭があって、そういうことにならないように、世の中の汚いところ、ずる賢いところ、そんなものをきっちり、よく勉強して、うまく…っていうのもちょっと語弊がありますけど、世渡りができるというか…。そんなことを考えると、当時の17、18歳の頭からすると、政治のドロドロした裏の世界をしっかり踏まえた方がいいんじゃないかと思って。だから、政治の世界にはそんなに詳しくはなかったけれど、自分はやっぱり政治の勉強をしたらいいんだろうって思ってましたね。 そうすると、自動的に法学部ということになる。日本の大学で政治を勉強しようとしたら、普通は法学部を選択する。かつ、東京の大学。かつ、東大じゃない。かつ、嫌な言い方ですけど、東大じゃなくても文句を言われない。いわば東京大学に匹敵するぐらいの大学ってどこですかって言われたら、国立の大学の中では序列が決まっちゃってるんで、そうするともう私立のごく一部の大学しかなくなるんですね。で、早稲田大学に行きたいと思ってました、本当に、それはそうです。ところが、早稲田大学っていうのは、法学部と政治経済が分かれてるんですよね。だから、当然に、いわゆる早稲田政経、しかも政治学科が第一志望になりましたが、それは父親との関係でも表立っては言えなかったんです。父親が反対するかどうかじゃなくて、経済的に苦しかったんです。私学はやっぱりしんどかったんです。今はそれほど差がなくなってるって言いますけどね。だから、表向きは高校の担任の勧めもあって、「お前は東大は無理だけど、この大学だったら」って言われ方をして、一橋大学の法学部を第一志望にしていました。ところが受からなかったんですね。今は共通テストって言いますけど、昔は共通一次試験と言いまして、それで失敗したんですね。大失敗しました。なんでかというと、体調を崩したからです。アホな頭で勉強を一生懸命やりすぎて、無茶な勉強をして体調崩しちゃったんですね。3年の11月頃ですね。忘れもしない。勉強したことがどんどん頭から抜けていって、すっかり成績が落ちました。だから一橋は落ちました。二次まで行ったんですけど、受かれませんでした。そんな状況ですから、他も受からないわけですよ、はっきり言って。他も受けましたけど、早稲田政経も落ちるべくして落ちて、嫌な言い方ですけど、1個だけかろうじて引っかかったのが早稲田の法学部だった。 ――本意だったのか本意ではなかったのはともかく、早稲田の法学部に進学されたわけですけど、そこでどういう大学生活を過ごされましたでしょうか。これね、インチキみたいなんですけど、実は内心嬉しくもあったんですよ。悔しくもありましたけど。落ちて、夜の東京の街なんか一人でうろうろしている時には、すごく挫折感はありましたけれど、結果論として早稲田に入れたんですよね。学部は違うけど。だから、ある意味嬉しくはあった。田舎の高校なんで、私立ってものすごいチャラく見えるんですよ。それがものすごく鼻について嫌なところもあったけれど。なんで慶応じゃなくて早稲田なのかって言われたら、政治の勉強をしたかったし、ジャーナリストが割と念頭にあったんですよね。ジャーナリストで、やっぱり強いのは早稲田っていう…、伝統的に[早稲田が]強いということがあったんで、やっぱり早稲田に行きたいと思って、学部は違うけど早稲田に入れたっていうのは、ある意味嬉しくもあった。親にはものすごく申し訳ないと思いましたけどね。 なので、やっぱりコンプレックスがあるんですかね、バカなことはできない、と。一層バカなことができないし、経済的に負担をかけてしまうから。親は進学のために借金したって言うし…。なので、勉強ばっかりしてました。父親にも言われました。「つまらんことをして小金、小銭を稼ぐぐらいだったら勉強しろ」って。「金のことは心配するな」って言われたんですね。だから勉強ばっかりしていました。親からは一浪してでもやり直せって言われました。もちろん東大に行けってことなんですけど、もう私にはそんな気力もなかったです。その気もさらさらなかった。いわゆる現役で受からなかったら、もう私は家業を継ぐつもりでいました。その方がなんか人間らしい生活だと思いましたしね。家業は非常にしんどい仕事なんですけど、その方がむしろ額に汗して労働して稼ぐっていう感じがして、すごく人間的な感じがして、自分にはむしろ合ってるなと思って。親父がなんていうか知らないけど、親父の跡を継ごうかって思って、仕事も手伝ってましたしね。そう思ってたんですけども、かろうじて引っかかっちゃったんで、そこに行くことにして勉強します。 ひたすら勉強しました。何してたかっていうと、とにかく、所詮18歳の子どもですからね。勉強の仕方がわからないから、今まで通り勉強しようと思いました。じゃあどうするかというと、試験、受験といったことをイメージして、そのための勉強をひたすらする。そうすると法学部なので、基本的に司法試験になるわけです。じゃあ司法試験を受けて、裁判官、弁護士になりたいかって、全然そんな気持ちありませんでした。みんな目を輝かせてるんです、周りの人たちは。そういうふうに勉強してる人はサークル――勉強するサークルに入ったんで、本学で言うとLIBRAみたいなところですよね――に入って…。周りは本当に優秀で、司法試験予備校に通っている人たちがいっぱいいるんですけど、みんな目を輝かせてそういう夢を語るわけですけど、私、全然そんな気がなくて、いわば勉強するための手段として、日本で最難関だと言われる資格試験、司法試験を目指して勉強してましたね。だから朝から晩まで大学にいました。朝の9時から夜の9時までですね。もちろん9時前に来て、図書館で奪い合うように新聞を見て、司法試験受験生と同じように肩を並べて勉強するってことをやってましたね。基本的には大学時代はそうやってやってました。 最初のうちは、同じようにコンプレックスを抱えている人たちが周りにいたもんだから、つまんない話ばかりしてたんですよ。その後入ったサークルで全然違う世界の人たちがいたもんだから、彼女ら彼らと仲良くなりましたね。何が違うかって、私は田舎者だからバカ正直で…。連中は早稲田大学高等学院って付属校から来てる奴もいて、そういう人らって都会の人たちだから、昔の言い方だとシティーボーイってやつですよね。シティーボーイなんですけど、[男子校で]男しかいないから、遊ぶんです。めちゃくちゃ狂ったように遊ぶんですね。田舎の人間ってわかんない、そんな世界。全く理解不能なわけです。でも勉強するという時は狂ったように勉強するんです。めちゃくちゃ成績がいいんです。そんな人種って初めて見たし、しかもみんな垢抜けてて、芸能人みたいにみんな見えるわけですよ、田舎から来た人間からすると。そうすると、すごいなと思いましたね。やっぱり彼らから刺激はもらいました。大学の勉強っていうのは、教師がさせるもんじゃなくて、周りの仲間が刺激を与えて、その中で頑張るもんだなとよく思いましたね。因みにですけど、逆に彼らからすると、私みたいな人間もすごく新鮮に見えたらしいんです。なんでこんなクソ真面目に勉強してんだろうっていうことだったらしいです。だから逆に新鮮で刺激になったって、彼らは言ってましたね。 ともあれ、そうやって中で遊んだり飲み歩いたりとかしつつ、自分も一生懸命勉強してってやってましたけど、やっぱり司法試験にそもそも関心がないもんだから、なんか違和感を感じてましたね。なんでこんなつまんないことやってるんだろうって。そんな生活が3年生の途中までですかね。司法試験を1回目受けて落ちる。その一方で、政治の勉強はしたかっていうと、政治学科がない法学部に入った以上、法学部で政治の勉強をしようとするとどうなるかっていうと、一番政治に近い法を勉強することになる。そうすると、端的に考えて憲法になるわけです。だから、勉強はある意味、なんでこんな難しいことをやっているんだ、訳分かんないよと思いつつ、憲法だけはもう別腹、別枠で勉強しました。サークルの先輩から勧められたかなり難しい本[佐藤幸治『憲法』(青林書院新社、1981年)]を、訳分かんないながら、齧り付くように読んでましたね。合宿で自動車免許を取ったんですけど、その時でも片時も離さずそれを齧ってました。憲法だけは別枠で、ある意味趣味みたいに勉強しましたけど、あとはもうまぁまぁ…。それなりに面白いんですよ、そういうの勉強しても面白いんですけど、そんな感じで勉強してました。 但し、転機が訪れます。一つは、「そもそも法学って何なんだろう」、「法律の勉強って何なんだろう」っていうのが、かねがね疑問になって、これって全部インチキじゃないかと思ってました。今でも覚えているのは、不動産物権変動ってやつで、まだ皆さん勉強しないからわからないと思うんですけど、土地をAさんとBさんに両方売っちゃって、どっちが自分が所有者だって、持ち主だって主張できるかって話をいずれ物権で勉強するだろうと思うんですけども、典型的なお約束の世界のお勉強なんですけど、その時に、もともと持ってた人を保護するのか、それとも後の人を保護するのかということで、当時の言葉として、静的安全、動的安全という言い方をしてたんですよ。要は取引を重視するのか、もともとの所有者を保護するのかというか、そんなような世界だと思います。それを当時の民法、物権法の世界で静的安全、動的安全、どちらを保護するかみたいな話を議論してたんですけど、これって要は金儲けに役に立つか役に立たないかって、むしろ法学云々の独自の世界じゃなく、経済の世界に還元されるだけの話を法学的なオブラートに包んで法律用語に基づいて言い換えているだけなんじゃないか。つまり、「法学には独自の領域って何もないんじゃないか」っていうのがずっと頭にもたげていて、もともと法学部の法律を勉強する気がなかった人間だから、やっぱりそういう斜に構えた姿勢があったんでしょうね。じゃあ、「自分がいる法学部の法学って何なんだろう」、「法って何なんだろう」、「独自の領域ってあるんだろうか」、「実はほとんど中身がない空っぽなんじゃないか」って、今でもそうですけど、そんな疑問を持ち続けて、ずっとそんなことばかり考えてましたね。だから司法試験に落ちるんですけど。 ある時、ある難しい憲法の本[山下威士「根本規範」、小島和司編・ジュリスト増刊『憲法の争点(新版)』(有斐閣、1985年)所収]で、そんなことと同じようなことを言ってるらしい人に出会ったんですね。それが多分、学部の1年生、後期か後半か2年生ぐらいじゃなかったかな。当時は難しすぎてさっぱりわかんなかったです。ただ、その後、3年生ぐらいでよくよく考えて、実はそこで出てきた「なんとか」っていう外国の人は自分と同じようなことを考えてたんじゃないだろうかって思った。それがハンス・ケルゼン[Hans Kelsen]って人だったんですね。だから、俺はこんなくだらないことを考えてて世のため人のためになるんだろうかってことを逆に悩み始めた。それでも、そんなことを癖でつらつらと考えているわけです。そうすると、このケルゼンさんという人に関する文献を、受験勉強をちゃんと真面目にやらないで見ているときに、この人を好意的に評価する先生方に出会ったんですね。文献で、ですけど。もちろんこの人[ケルゼン]に対しては、かなり批判する人たちも多いわけです。ところが、ケルゼンという人は、実は何をやってきたのか、こんなことをやって、どういう意味があったのかってことを、解釈して説明する先生方に出会った。固有名詞を出しますと、お一方が樋口陽一っていう先生です。いずれ私のある意味で先生になります。直接お会いして、ご指導も受けてって方になります。直接の私の師匠じゃないんですけどね。実質的に私の師匠だと仰いでいる人ですけど、樋口陽一先生です。もう一人は法哲学っていう領域の長尾龍一先生です。私はこのお二方にハマるわけです。彼らを通じてケルゼンさんの――翻訳ですけどね、まだドイツ語はそんなに、読もうと思えば少しは読めたんですけど、あんまり読めなかったんで――翻訳を通じて、樋口先生と長尾先生とケルゼン先生の本にドハマりするわけです。 その頃にはもう完全にグレています。司法試験は真面目にやる気ありません。4年生の時も司法試験を受けましたけど、択一式、マークシートの試験ですね、これで落ちました。まあ、やる気がないわけです。自分の仲間たちの中に受かった人もいるんですけれど、立派だな、すごいな、羨ましいな思いつつも、自分の心はそこにありませんでした。で、3年以降の出会いってやっぱり多くて、サークル以外にもお世話になった先生がいらして。中央大学の先生なんですけど、英米法の先生、長内了って先生なんですけど、先生にすごくお世話になりまして、その先生が持っていた実質的なゼミ、英書講読っていう授業だったんですけど、まず3年のときに長内先生の講義を受けて、その後4年の英書講読の授業で出会ったゼミの仲間たちにも影響を受けました。彼らとはやっぱり、仲良かった、楽しかったです。ある意味、3年・4年の時に初めて、大学に入って楽しいなと思いましたね。つまり、勉強の仕方として、初め、そういうふうにガリガリと勉強したんだけども、自分の問題意識に目覚めて、後半はなんかそっちの方に勉強はシフトしていった。結果的かわかりませんけど、楽しい仲間たちにも会えた。 ――今お話の中にもありましたように、ケルゼンに対する関心を昔からお持ちだったということなんですけれども、そのままケルゼンに対する関心を持ったまま大学院に行かれたのでしょうか。そもそも大学院に行こうと思ったきっかけはどのようなものだったんでしょうか。さっきも言いましたように、私、経済的に苦しかったんです。奨学金を取りまくってました。学部の時は寮に入ってました。岐阜県の出身の人が入れる県人寮ってやつで、そこでひたすら食費を切り詰めて、浮いた金を本に回して、っていう生活をしてました。寮なので、一応朝と夕方は食事出るんですよ。1月4万いくらだったかな。結構高かったんですけど、それでもその範囲内でなんとか飢え死にすることはないだろうと。昼飯はもう本当に大学生協の食堂で100円で食べてましたね。ライスと味噌汁、ふりかけだけ。そんな生活をしてて、とにかく奨学金の範囲内で生活が収まるような生活をして、家計簿をちゃんとつけて、出納簿もやってたんですね。そんな人間が、「大学院に行かせてください」って口が裂けても言えないわけですよ。つまり就職しなきゃいけない。さっさと。司法試験もやる気もないし、受かりそうもない、在学中は無理だ、と。高校の同級生で3年間同じだった、すごく優秀だった奴が東大法学部に入って在学中に司法試験受かっちゃったんですけど、自分にはそんな頭もないので、やる気もないし、もう就職しましょうって形で就活しました。皆さんはピンとこないかもしれませんけど、昔はいわゆるバブルってやつで、もう何にもしなくても就職決まっちゃう世界で、私はほとんど何もやってません。勝手にOG、OBを名乗る人が現れて、なんか話を聞いて、面接受けさせられて、何にも勉強しない、何にも準備をしない、勝手に合格で内定決まる、内々定をもらうって、そういう世界でした。で、2つの保険会社で内内定もらったのかな。結局1つは受けて、こっち[関西]に本社がある生命保険会社に行くことにしたんですよ。で、行きますよっていうふうに話をしてたんですね。 ただ、自分の勉強に対する心残りはやっぱり強くて、今までこれだけ一生懸命勉強してきたのに、これを全然生かすことがないような業種に行くことがものすごく口惜しくて、もったいないと思って。結局、ありったけの10円・100円硬貨を握りしめて、公衆電話ボックスに閉じこもって実家の父親に電話して、大学院に行かせてもらえないかって懇願しました。情けない話ですけど。要するに、今までの勉強を続けたいと思ったんですね。懇願しました。で、懇願して、父親は諦めたような感じで、私を大学卒業させたらもう自分の役割は終わったと思ってたんだけど、またしばらく頑張んなきゃいけないな、みたいな。でも、一応許してもらいました。自分としては、なんとかこれまで奨学金でほぼ親に経済的な負担を、授業料とかそういうのは除いて、東京での生活において負担をかけることはなかったという自負があったので、その生活を今まで以上に徹底してやれば、何とかなるんだろうとは思ってはいたんです。ただし、授業料だけはどうにもならないので、これは出してもらえないかというのをちょっと頭を下げましたね。他方、父親としては、実家に戻ってきて家業を継ぐ気はないだろうし、そしてそんなことさせてもこいつは使い物にならない、そういう性格のやつじゃないんだと分かっていたから、はっきり私には「お前には何も期待しない」って言われました。せめて岐阜に戻って地元の企業でも就職して、親の面倒でも見てくれるかという期待もあったけど、それも諦めたんでしょうね。私にもその気はなかった。なので、こいつはこういう融通が利かない馬鹿なやつだから、こういう風にするしかないんだろうなと思って、諦めて許してもらいましたね。授業料も出してもらいました。大学院入って、奨学金ももうちょっと額が上がるんで生活は何とかなりましたが。借金はもう膨大な額が貯まりましたけど。 要するに、大学の学部の時に持った、抱いた問題関心といったものを突き詰めるために、それを今まで学校の時に勉強したものを無駄にしないためにも、もう少し勉強を続けたいと思って、大学院に入りました。入らせてもらいました。特に経済的な障害がものすごくあったんですけど、そういうふうにしました。 ――それでは大学院での研究テーマについて教えていただきたいと思います。さっき言った事情から大学院に入ったので、じゃあ、そのケルゼンという人を勉強するかというと、必ずしもそうじゃなかったわけですよ。なにしろ自分の学部自体の恩師で、ある意味勉強を続けるようと思った原因を作った、かつ、私のお手本にもなった長内了先生が中央大学の英米法の先生で、カナダの憲法に造詣が深い方だったんですね。だから長内先生との関係でも、イギリス法はさすがにハードル高いんで、アメリカ憲法の方で勉強するのか、それともどうするのかって悩んでましたね。ただ、大学院での勉強を通じて、どうも自分はアメリカには向かないって思いました。[アメリカ連邦裁判所の憲法]判例の勉強をコツコツとやり続ける、判決文のあの鬱陶しい英語を読み続けるっていうのは自分にはちょっと無理かなと思いました。もっと単刀直入に書いてあるように当時は見えたドイツの文献の方が自分には向くんだろうと思って。そうすると、ドイツの勉強で何するかって時に、そのままケルゼンさんはオーストリア出身の人、ドイツ語圏の人だったんで、重要な文献はドイツ語で書かれたものが多いんです。英語もあるんですけど。だからドイツの本をやるかって、ケルゼンさんのドイツの話をするかって、必ずしもそうでもなかったですね。 なんでかっていうと、今でもそうですけど、当時だってケルゼンっていうのは日本の法学――法哲学、憲法学、その他――にとって圧倒的に有名な人だったんで、もうやり尽くされたって感じがあっただろうと思う。難しい言い方をすると、先行業績がいっぱいあるもんだから、それを今更また何やるんだっていうことで、イメージが湧かなかったんですね。じゃあどうするか。 因みに、ちょっと前後しますけれども、大学院に憲法で大学院に行くのか、法哲学で大学院に行くのか、行政法で大学院に行くのか、これも実は悩みました。行政法ってここで初めて出てきたと思うんですけど、やはりケルゼンの影響を確実に受けている藤田宙靖という先生がいらして、この先生は後に最高裁判所の裁判官にもなられた方なんですけども、正直、行政法が好きだったというよりは、この藤田宙靖という東北大学の先生なんですけど、この先生の言ってることがやっぱり好きだったんで、行政法も選択肢かなと思ってこの3つで悩んだんですけど、将来何らかの形で就職しやすいということを考えると法哲学だとか行政法だと厳しいだろうと思って、憲法だったら潰しが利くんじゃないかというそういう打算的な発想もあって憲法にしたところもあります。憲法の専攻という形で大学院に入ったんですね。もちろん、あと議会制にも関心があったので、直接にやれるとなると、やっぱり憲法が一番近いだろうということで、やっぱり憲法にしました。 そんなふうに憲法を選択したんですが、話を元に戻しますと、憲法をやりながら法哲学をやるのもなんだかなあという感じがして、もう少し憲法らしい話もしなきゃいけないなあなんてことを思って、あれこれ考えていたんですけど…。 修士論文のテーマにいつ頃から意識して始めたのかって、あんまり覚えてないんですね。たぶん基本的に高校生の頃から問題関心があったことである、それは何かというと、高校生の時に岩波新書あたりで読んだのかな、なんかで読んだやつで[杉原泰雄『平和憲法』(岩波新書、1987年)辺りか(但し出版は大学入学後)]、子供の頃からなんとなく感じていたのは、「なんで日本の憲法ってこんなに守られないんだろう」ということ。法律だとかルールっていうのは、皆さんも小中高の頃はちゃんと守りなさいよって言われるもんじゃないですか。ところが読んだ本が偏っていたのかもしれないけれど、とにかく憲法は守られていないっていうイメージが強かった。そうすると、どうやったら憲法というルールをみんな守ってくれるようになるんだろうか。皆さんも私の講義「憲法と社会」を勉強してるから分かってると思うけど、憲法はいわゆる国民が守らなきゃいけないっていうものじゃないですね。憲法に縛られなきゃいけない国家権力、公権力担当者が守らなきゃいけないのに、肝心の国家権力、公権力担当者、特に9条関係とか、どうも真面目に守る気がないらしい。抜け駆けばかりしようとしている。これって良くないことじゃないか。守るに値しないルールだったら守らなきゃいいと思うんですけど、ただ子供心に、なんでみんな政治家の人たちは憲法を守ることをしないんだって、そんな問題意識は漠然としてあったんですね。実は今でも、もうそのままあります。そうすると、じゃあ、憲法が守られるようにするためにはどうしたらいいんだろうか、とか、憲法を守るっていうのはどういうことをすれば守ることになるんだろうか、とか、そんなことを考えていて、それを修士論文のテーマにしました。この問題意識はケルゼンにも当然関わってくるんですね。大いに。だからケルゼンさんに対する問題意識を持ちつつ、今お話したみたいな問題意識をいわば深めていく、勉強を深めるための勉強をしていく、それを解明するための勉強をしていくということはできるだろうと思って、それをテーマに選びました。それが修士論文で、タイトルは「憲法の規範力」でした。それをテーマに選んで、修士論文を書いて、まあ一応博士後期課程に行けて、自分の受験の中で一番しんどかった、ハードルが高かった受験なんですけど一発で合格できて。合格発表の時、足が震えましたけどね。ものすごく難しい試験だったんで。なんとか受かりましたけれど。ただし、その修士論文はお蔵入りと。それで、博士後期課程では、ある意味テーマを変えたんですね。 博士後期課程に入って、この「憲法の規範力」っていう修士論文は極めて出来が悪いと思いました。私の先輩にも当たる[今関源成]先生によって実質的に審査されて、彼のお目こぼしのおかげで合格させてもらったようなところがあると本当に思ってるんですけれど、出来がすごく悪くて、とても表に出せない、手直ししても表に出せないんじゃないかって思う一方で、うまくいかなかったと自分で思ってるもんだから、もういいやっていう。「自分がこういうことを考えても、多分あまりものにならないだろう」って思いました。で、どうしようかっていってる時に、大学院にたくさんいた仲間のうちに、法学の専門でない人たちと一緒に勉強会を開いた人たちがいて、その時の政治のあり方その他に対して問題意識を持って勉強して発表するといった、そんな勉強会に加わりました。その時に文学部出身の方で、社会学やってる人[道場親信さん]が、どうも私が理解していたような、ドイツ憲法のあり方とは違う理解の仕方をしているのが気になったんです。すなわち、日本は戦争の責任だとかあまり感じてないのに、ドイツってすごくちゃんと戦争責任を意識しているじゃないか。つまり、戦争に負けて戦争の原因を作った国の中で、日本は反省が足りないのに、ドイツは模範的だ、優等生的だっていうイメージを持っていて、自分が知っていたドイツとはちょっと違うんじゃないかっていう気持ちもあって、そのことについて、反論するってわけじゃないけど、自分の考えを表明するような勉強をしたらいいのかなと思って書いたのが、「「たたかう民主制」と「過去の克服」」(早稲田大学大学院法研論集82号(1997年))っていうやつなんです。これをチラッと論文として書いて、以後、私の今までの勉強の歴史を振り返ってみると、前半部分ぐらいは「戦う民主制」をテーマにやってきました。ある意味、これが私の看板になっちゃったところがあるっぽいんで、大したこと何もしてませんけど、今でも関心がないわけではないです。けれども、これが私のある意味自分の研究テーマっていうふうになったところがあります。皆さんが読んでくれたらしい「ハンス・ケルゼンにおける「反立憲主義的傾向」(1)~(5・完)――ケルゼンにおける「立憲主義的傾向」の救済に向けた一試論」(早稲田大学大学院法研論集68、70、72、74、77号(1994~1997年))は、その話に行く前の話なんですね。そんな、ある意味外在的な理由で、こういうふうに「戦う民主制」を扱ったんですけど、これ[「戦う民主制」]もケルゼンが批判したものとして有名なんです[長尾龍一訳「民主制の擁護」、『ハンス・ケルゼン著作集Ⅰ 民主主義論』(慈学社、2009年)所収]。 「戦う民主制」の話に行く前に、「憲法の規範力」っていう修士論文が出来があまりに悪くて嫌になっちゃったっていう話をしてましたよね。次にどこに行こうかっていった時に、いろんな勉強とか読書とかしている中で、政治思想史に関心を持つようになって。クェンティン・スキナーっていうイギリスの政治思想史の大先生がいらして、この方が、例えばジョン・ロックが古典を書いているときに、本人が、その何百年後にこんなふうに読まれるって考えたことがあるだろうか、言い方を変えれば、今を生きる人間はそういった何百年前の古典を今の問題意識で読んでるだけであって、その読み方って本当にいいんだろうかっていう、そういう問題提起をしてたんです。これも翻訳で見ました。岩波のなんかのシリーズに載ってて[半澤孝麿・加藤節編訳『思想史とはなにか-意味とコンテクスト』(岩波書店、1990年)]、話題だったから私も見てちょっと衝撃を受けたんですけど。そうすると、ケルゼンという人も、いろんな人たちが先行業績でいろんなことを言っているけれども、もう少し当時の文脈に即して読むってことをしなきゃ、今読んでる人が勝手にそういうふうに思い込んで読んでるだけなんじゃないかというふうに、今までの本の読み方、文献の読み方を反省することに迫られて、じゃあ自分もその真似事をしてみようと思ってやったのが、この「ハンス・ケルゼンにおける「反立憲主義傾向」」ってやつです。アホなので、偉い先生方にもこれを送りつけて反応もらったりたんですけれど、大変情けない作文です。全然ダメです。全然一次資料を使ってませんし、そもそもダメです。ただ、こんな問題関心も持っていて、その方法を徹底しようと思って、自分なりに真似事をしながらそういった文献の読み方をしつつ、その後の論文を書いていきました。ずっとその方法にだいぶ意識して囚われたところがあろうかと思います。 ――「戦う民主制」について一言説明いただけますと幸いです。宮澤俊義という憲法の大先生が言った表現[「たたかう民主制」、『法律学における学説』(有斐閣、1968年)所収]を使うと、「トロイの馬」っていう逸話がありまして。民主主義といったものは自分の中に民主主義に反対する人も囲ってしまう。民主主義はいろんな人がいろんなことを言ってもいいんだから、「民主主義なんかやめたほうがいい」という意見もちゃんと受け入れてしまう。これは矛盾ではないのか、って話ですね。「トロイの馬」っていうのは、お城の城壁の中に「贈り物ですよ」とか言って、大きな馬を入れていって、これで戦争は終わりなんだなと思ったら、その贈り物の馬の中に敵が入っていた。で、その中から敵が城の城壁の中の兵士をやっつけて、結局お城の人たちは負けてしまったという、大雑把にそういう話なんですけれど、それに譬えて、民主主義っていっても、自分の、つまり民主主義の敵に対して民主主義は寛容でなければいけない、民主主義なんか嫌だっていう人たちに対して、民主主義は意見を言わせなければいけない――これがいいのか悪いのかっていう…。戦後ドイツはワイマール憲法という、当時、世界で最も民主主義で進んだ憲法だと言われた憲法の下で、ナチスというワイマール憲法を最も敵視したと言ってもいいような人たちを、いわば囲ってしまった、養ってしまった。そういう人たちもいていいですよっていうふうにいったんですね。結局、ナチス・ドイツはワイマール憲法を停止し、実質的にもなくしてしまって、酷いことをした。これは皆さん知ってると思います。そうすると、民主的な憲法とはいえ、そういうような民主主義を食い物にするような敵に対しては寛容ではいられないんじゃないか。そんな民主主義の敵に対しては、民主主義は自分を守らなきゃいけないじゃないか。それがすなわち「戦う民主制」だとか「防衛的民主制」って言い方で、民主主義は民主主義の敵に対しては守らなければいけない、戦わなければいけないって考え方のことを言います。頭の体操的な矛盾した話なんですけど、これに対してさっき言ったケルゼンという人は、そういうのは本当の民主主義じゃないと一時期言いました[前掲「民主制の擁護」]。第二次世界大戦が始まる前ぐらいかな。そういう時代だったんですけど、いろんな人たちがいろんな意見を言う中で、ハンス・ケルゼンという人は、それは本当の民主主義じゃないと言ったことがあります。私はそれをすごく意識してたので、戦後のドイツの戦う民主制、民主主義の敵に対して民主主義は守りの姿勢を取らなければいけない、つまり排除しなければいけない――そういった考え方はおかしいんじゃないか、戦後ドイツといったものはあまり模範的なというか、優等生的なものとは見ることができないような側面も持っているんじゃないかという意識はあったんですね。因みに、そのような「戦う民主制」というやり方は、今のドイツでは今でも明らかに一応枠組みとしてはとっているんですけれど、これに対して日本はそのような民主主義のやり方を採用していないというふうに憲法は解釈されています。それが一応通説ですね。 ――今お話しがあったように、渡辺先生のご研究といえば「戦う民主制」論をイメージしますし、樋口陽一先生の『国法学』の中でも取り上げられていたかと思います。論文を拝見しますと、1997年の論文から2005年の「公序と公安」あたりまで議論を深められて来られたのかなというふうに思います。その後、神戸学院大学で長く勤められておられますけれども、最近は少し毛色の異なった論文をお書きかなというふうに思いますけれども(渡辺洋「彼女ら彼らの戯れが、なぜ憲法になるのか――シャピロ・社会計画論を読む――」愛敬浩二他編『憲法学の領分:中島徹先生古稀記念論集』(日本評論社、2025年);渡辺洋「誰が、なぜ、憲法に戯れるのか――マルモア『社会慣行論』を読み直す」『もうひとつの憲法学I:棟居快行先生古稀記念』(信山社、2026年))、現在に至る研究関心について教えていただければと思います。自分の業績リストを見直してみて、どこまで「戦う民主制」の話をしてたのかなと思うんですけど、今でも依頼されるお仕事ではその絡みの仕事が多いです。比較的最近「ヘイトスピーチ」っていう項目を担当させてもらって(渡辺洋「ヘイトスピーチ」ドイツ憲法判例研究会編『ドイツ基本権裁判の展開』(信山社、2025年))。ヘイトスピーチと「戦う民主制」って何が関わるかっていうと、要は表現の自由、日本の憲法だと21条、ドイツだと基本法5条っていうのが関係してくるんですけれど、表現の自由を台無しにするような表現の自由って許されるのかという言い方をするよりも、ヘイトな表現っていうのは、そもそも表現として保護しちゃダメなんじゃないだろうか、民族だとか、障害があるかどうかも含めてですけど、そういったものに対して口汚い言葉で批判する、馬鹿にするといったことは、それこそ自由で民主的な社会のあり方を傷つけるような表現だから、そんなもので、あなたたちも自由で好きなことを喋ってくださいというふうに保護してあげる理由はないんじゃないかっていう、その論理からすると、ヘイトスピーチの話も特に「戦う民主制」の話にどうしても関わっちゃうんですよね。日本はそんな意識多分ないんですけど、基本的にはドイツの場合はそう、ヨーロッパ的にも大体そうだ、という言い方もできるだろうと思います。 その意味では、「戦う民主制」の話は今でもやったりするんだけど、関心は離れています。まず一つは、「戦う民主制」の専門家は他にもいらっしゃるんですよね。数ある専門家の方々で、今でも精力的に仕事をしている方とかは、もっとドイツの実務だとか現状とかをきちんと丹念にフォローしておられる。もうひと方、私より若い方もいらっしゃるけども、彼なんかもやっぱりドイツの現状というのをきちんと丁寧に制度も含めてフォローしているけど、私の関心ってあまりそういうところになかったんですね。今ドイツでどういう風になってますかってことを丹念にフォローすることをしないで、むしろ法哲学的な、もっと抽象度が高い、理屈の上でこういった説明が成り立つかどうかってことに関心があったから、そういった具体的な実務のあり方をフォローするってことをほぼやってなかった。つまり、実践的には使い物にならないお勉強だったんですね。つまみ食い的なところも非常にある。なので、そういうやり方には限界を感じてました。限界を感じましたし、しんどくなってきた。大分、自分的にはこのやり方は要するに限界がある、無理があるんじゃないかっていうことは考えてました。 教員組合っていう労働組合の組合長をやったあとに、国内留学なんですけど、いわば休みをお勉強のために1年間取らせてもらいました。その時も研究テーマとして、その種の絡みの話をやるつもりだったんです。でも、そこで幸か不幸か出会ってしまったのが、2014年から2015年にかけての安保法制ってやつなんですね。今日講義でちょっと話したやつですけどね。つまり、日本の憲法9条の下では、政府の解釈の下でも個別的自衛権しか許されないとされていて長らくそのように維持されてきたのに、2014年の閣議決定によって当時の政権は集団的自衛権も限定的とはいえ認められますよ、今までの立場と矛盾はないですよっていうふうに言ったんですよね。その後、それに基づいて法律を作ろうとして国会に法案を提出した。ちょうどその時期とぶつかっちゃったんですね。私は東京に行ってます。東京の早稲田大学に私の修士論文を通してくれた[前出の今関源成]先生がまだいらっしゃったんで、ご存命だったんで、彼にお願いして、そのもとで早稲田大学で研究をさせてもらって東京にいました。そうすると、東京って永田町があって、国会があって、そういう安全保障法制といったものを変更するということに対して、かなり激しい反対運動が起きていて、デモが起きていた。それを目の当たりにすることができてしまったわけです。9条自体、私は関心がないというよりは苦手なんですけれど、ただ、今までの経緯からして9条絡みで問題意識を持っているのは確かにあるので、だから、そういった国会議事堂の前に行って、デモの様子とかを見てきたり、写真で撮ってきたりとか、やったんですね。 そういう状況の中で、昔、疑問に思ったことがまた復活しちゃったんです。「なんで憲法に一番縛られなければいけない人たちが、こういうふうに憲法を破ったり、守らなかったりするんだろうか」、「何をしたら憲法を守ることになるんだろうか」、「憲法の今の解釈の仕方が良くなくなった、時代に合わなくなったとしたら変更するってことはしちゃいけないんだろうか」、「逆に、していいとすれば、何かそのための条件ってあるんだろうか」… そんなことも考えるようになりました。つまり、昔思ってた問題意識が復活しちゃったわけです。自分の生きる道ではないけど、こっちの方[ケルゼンを中心としたドイツ公法学説の思想史“的”考察や「戦う民主制」など]でやってた、それに行き詰まりや限界とかを感じて興味を失いつつある一方で、昔やりかけにして放り出しちゃった「憲法の規範力」ってやつの問題意識が復活しちゃったんですね。その国内留学の1年間が終わった後に、一応論文を書きました。ある先生の古稀記念論文なんですけど(「慣行と制裁――「法哲学の基本文献」」『憲法学の創造的展開:戸波江二先生古稀記念』(信山社、2017年))。そうすると、今までの問題意識は、フィールドはドイツの話だったんですけど、ドイツだけでも足りなくなってくる。憲法の規範力っていうテーマ、問題関心で、ドイツの文献でやろうとすると、どうしても袋小路に入ってしまうという限界も感じていたんです。今は必ずしもそうでないところがあるのかもしれませんけど、ケルゼンという人は、とにかくドイツ語圏の人だけども、比較的最近までドイツ語圏ではオーストリアを除いて毛嫌いされていたんです。だからこそ、その辺の研究の深みは、私から言わせればなかった。因みに私、ホルスト・ドライアーって人も、立派な先生ですけど、彼の言ってること[Horst Dreier, Rechtslehre, Staatssoziologie und Demokratietheorie bei Hans Kelsen, 1986]もやっぱり疑問を感じていたところがあって、ドイツ語の文献をやりながら掘り下げようとしても多分無理なんじゃないかっていう限界を感じていた。それもあったんですね。今言った復活した問題意識といったものを前提にすると、もうこのままドイツでは無理だろうと思っていて、今までいわば敵みたいに思っていた英米圏、イギリスやアメリカの文献を読まざるを得なくなった。誰かというと、H・L・A・ハートという人だとか、その弟子たちのお勉強をせざるを得なくなってきて、ドイツ語も得意じゃないけど、英語なんか得意じゃないのに、英語の文献を読み始めてこっちの方に展開していたっていうことですね。 実はいわば皮肉なことに、その後ドイツではケルゼンという人は、なんでか知らないけど再評価される。ドライヤーさんの影響もあるんですけど、再評価されるようになって、今じゃケルゼンが持て囃されてるっていう状況らしいんですけど、その状況も私は気に入らないですね。あともう一つ、ナチス・ドイツを経験して、ものすごくドイツの法哲学は、変な言い方ですけど、真面目になったっていうか、倫理的・道徳的になって、羽目を外したことを言わなくなってしまった。みんな大体同じようなことを言っているように私は見えてきました。昔はそうでもなかった気がする。偉大な法哲学者がいたのに、そうでなくなってしまったっていう感じがしていました。要するに、そっちを掘り下げても出てこないなっていう感じがします。 ところが、ハートという人は、最近でこそ言われるようになりましたけど、実はケルゼンという人を批判しながら、かなりの程度ケルゼンの影響を受けていて、その下地をベースにしている。だとすると、実は言葉は違うけれども、国も全然違うっちゃ違うんですけど、実はケルゼンの考え方を正当に発展させていったのは、ドイツ、オーストリアの人じゃなくて、英米圏、もっと言えば、ハートとその弟子たちではないのかって思い始めました。それは私がすごく嫌ってたことなんです。話が前後しますけど、学部の法哲学の授業を4年生の時に受けて試験を受けました。さっき言った4年の「英書講読」の仲間たちが仲良かったんで、私、法哲学好きだったから、彼らは全然わからないって言うんで、私が教えてあげて、みんな「優」を取ったんですね。ところが私、教えてあげた当の本人は「可」という成績しかもらえなかった。なんでかっていうと、4年生の時に受けた法哲学の先生はハートべったりの人だったんですね。1年間ハートの授業をやってた。ケルゼンを批判するわけです。私もケルゼンにかぶれてましたんで、何言ってんだこの人はと思ってケルゼンを擁護する答案を書いたんですね。ハートを批判して。そうしたら成績はもらえたけど一番悪い成績だった。だから、私は学部の頃から英米圏の、特にハート関係のやつは敵だというくらいに思ってました。だから、近づきもしなかったですけれども、皮肉なことに30年ぐらい経ってから、今まで嫌っていた英米圏の法哲学の勉強をし始めたっていうことですね。今は慣れない英語で全然進まないけど、とても楽しいです。私が生きる道はここにあったんだなって言って、もう50歳過ぎてからそんなことを思い始めている昨今です。 ――最後に、これから大学4年弱過ごされる1年生にメッセージをお願いします。大学の教員の立場からすれば、勉強してくださいと言いますけど、大学の教員を離れて、今までの経験に照らして、年寄りから言うとすると、好きなことしたらいいんじゃないっていうのが正直なところですよね。勉強したからといって、何かいいことがあるわけじゃないと思うんですよ。何のために勉強するかって、それぞれ考えてくれたらいいと思いますけど[『2026年度法学部案内』の「教員ファイル」の渡辺執筆欄を参照]、私も言ったように資格試験のために勉強したって面白くないじゃないですか。つまんないと思いますよ、そんなのは。だとすれば、好きなようなことをしてればいいので、なんとなく大学卒業したらいいのかなっていう。その中で私のように勉強することが楽しいから勉強するって人がいてもいいだろうと思うし。だから、就活のことを考えて今からその準備をするってことも、本当にいいのかどうか私は疑ってます。いいところに就職しようと思ったら、今から走り出した方がいいし、準備した方がいいのは確かにそうなんだけど、本当に皆さんにとってそれがいいことなのかな。自分の考え方も方針も夢も変わり得るし、私なんて大学の教員をやるなんで、全然思ってなかったですからね。今でも全然仕事向いてないと思うし、なりたくてなったわけじゃないですから。なので、自分はこうだって決めてかからないで、いろんなことを体験しながら、自分の方向性を定めるための大学生活にしていただけたらいいんじゃないかなっていうのが、教員の立場を離れた身からすると思います。 2026年6月22日実施 |
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