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学生インタヴュー:福嶋敏明先生(憲法)

法学部1年生有志が福嶋敏明先生〔教授・憲法〕にインタヴューを行い、これまでの研究と現在の関心を伺いました。

 


 

――先生は早稲田大学法学部のご出身ですが、どのような理由で法学部を選択されたのでしょうか。

 僕は早稲田大学の系属校である早稲田実業学校高等部に通っていました。早稲田大学に進学できる高校だったんです。早稲田実業には普通科と商業科があって、僕は商業科に行っていました。商業科だったので、高校時代は簿記とか会計に関する勉強をしていました。ですので、本来であれば大学生が取るような簿記検定資格を高校時代にとっていたのです。昔から何か資格を取って仕事をしたいと思っていたので、早稲田実業を選んだということもあるのですが、高校時代はとにかく会計士か税理士になろうと考えていたので、当初は商学部に進学しようと思っていたんです。ところが僕はひねくれ者なので、高校3年の時に実際にどの学部を選ぶかというときに仲の良い同級生が会計士・税理士になりたいから商学部に行きたいと言い始めたんですよ。僕も同じような道を選ぶのは面白くないかなということで、会計士・税理士はやめようかなと思ったんですよね。会計士・税理士に代わる資格といえば弁護士だったので、弁護士になろうと思って法学部を選択しました。

 

――進学時には弁護士志望だったということですが、その後、大学院の方に進学されました。

 大学院に進学したのは、当初は司法試験を受けるため、いわゆるモラトリアムのためでした。大学時代は、細々と司法試験の勉強をしていたのですが、大学4年ではなかなか合格するのが難しい試験でしたので、大学院に進学して、2年間で試験を受験して合格できればなと思って大学院に進学することを決めたんです。

 ところが、浦田賢治先生という先生が早稲田大学の憲法の先生でおられました。3年生から浦田先生の憲法のゼミに所属して、憲法の勉強は好きだったので学部時代も勉強していたんですけれども、大学4年の春に浦田先生に相談に行ったんです。そのときに、「僕は司法試験を受けたいと思ってるので大学院に進学したいんです」ということを相談して、先生も「わかりました」と、「試験を受けてみてください」ということで、夏か秋だと思うのですが、大学院の試験を受けるんですね。ペーパー試験がまずあって、その後に面接があったのですけれども、その面接のときの浦田先生の最初の質問が、「福嶋くんは何で、研究者を目指したいと思ったの」ということだったんですね。「あれ、おかしいな」と。僕は司法試験を受けたいから大学院に行きたいんですということを先生にも話したはずでした。ただ、面接のときに、「先生違うんです、僕は司法試験を受けたいから大学院に進みたいんです」と言ったら、もしかすると落とされるのかもしれないなと思って、かくかくしかじかこういう理由で研究者になりたいと思ったんですという話をして、大学院に合格したんですけれども、そのときから少しずつ研究者ということを考えるようになった感じです。だから、ある種、ボタンの掛け違いなんです。先生がどういうご趣旨でそういう発言をしたのか、何かしらの意図があったのかよくわかりませんが、大学院入試の面接のときに浦田先生の方から研究者という選択肢をお示しいただいたことになります。

 それで、大学4年生の秋に大学院のゼミ合宿に参加させてもらったんですよね。その時、将来僕の先輩になる方々が集まって研究報告をするということで、その時は歴史学の上原専禄先生の本を読むという合宿だったので、一応僕も上原先生の本を読んで参加したのですが、先輩方の報告は議論が全くわからないんです、高度すぎて。その時ずいぶん悔しい思いをしたんだと思います。あまり年齢が違わないはずなのに、僕と圧倒的にレベルの違う議論をしているわけなので、そこでこの人たちについていきたいなという思いもあって、大学院のその合宿が終わった後に、かなり真面目に研究者になろうということで勉強し始めました。大学院に入る頃には研究者になろうと思って、大学院生活をスタートしました。

 

――浦田先生はイギリス憲法のご専門ですが、福嶋先生は主にアメリカ憲法を専門にされています。実質的なご指導はどのような形でされていたのでしょうか。

 浦田先生は研究内容については少なくともあれこれ口出しをする人じゃなかったですね。自分の好きなテーマを選んで研究してくださいというスタイルの先生でしたので、僕は修士論文ではアメリカの信教の自由に関することを研究して書いたのですが、特にその内容それ自体について先生からご指導いただいたことはありませんでした。ただ浦田先生は大学院の授業では、アメリカ憲法のケースブックを読む授業をされていたのですね。

[聞き手にケースブックを示す。]

 これがケースブックといって、アメリカの憲法の重要な判例のテキストを抜粋して、それにいろいろなコメントがついているという本です。浦田先生の授業ではストーン他のケースブック(Geoffrey R. Stone, et al., Constitutional Law)を読んでいく授業をしていました。浦田先生はイギリスのご専門なんですけれども、一流の研究者というのはやっぱりすごいのですね。アメリカのことについても、もちろんご存知で、ケースブックの読み方はその時に教えてもらいました。このケースブックを読んだからアメリカ憲法をやってるわけじゃなくて、僕の持ってる研究関心からアメリカ憲法を比較法の対象国として選択したわけですが。

 浦田先生の授業でケースブックを読むという訓練をさせていただいて、そのときに先生から教わったのは、研究者としては当たり前のことなんですけれども、まずテキストを正確に読むということ、もう一つが必ず原典にあたるということですね。例えばケースブックにはアメリカの判例が抜粋されていて、この論点についてはこういう論文があって、こういう論文でこういうことが主張されてますよということが簡単に抜き出されているのですが、自分の担当箇所の判例に関しては、扱われている判例と自分が重要と思う論文について必ず原典を見るということ。この二つ、とにかくテキストを正確に読むということと必ず原典に当たるということ、これをしっかりやりなさいということを大学院で浦田先生から教わったということです。具体的な研究内容についてあまり浦田先生からあれこれ言われなかったんですけれども、研究をする重要なスタイル、研究手法については重要なことを教えていただいたと思います。

 

――先輩や同期の方もおられたと思いますが、当時の研究室の雰囲気はどうでしたか。

 やはり先輩からすごくお世話になったという思いを持っています。修士課程に入ったときに研究室におられた二人の先輩、それぞれドイツ憲法とフランス憲法の専門家ですが、二人とも英語がすごくよく読める方で、大学院の授業のときに英語の読み方についてはいろいろご指導いただきました。修士課程の同期は浦田先生の研究室だけでも七名ぐらいいて、そのうちの四名が研究者志望で、最終的には別の大学院も含めて博士課程に進むんですけれども、学部時代と違って大学院に入ると、みんな勉強したい人ばかりが集まってくるところだったので、授業でももちろん議論はするし、授業が終わった後も近くの焼き肉屋などに行って、みんなで学問的な問題についていろいろと議論するということをよくやってましたよね。先生はあまり研究内容に干渉しない人で、授業中に様々な研究手法についてはご教示いただきましたけども、より先輩方からいろいろなことを教えていただいたように思います。ちなみに、研究室は違いましたけれども、本学法学部の渡辺洋先生〔憲法・教授〕も大学院の先輩で、大変お世話になりました。

 

――修士論文ではアメリカ憲法の研究をされました。

 修士論文のテーマは「宗教の特殊性に基づく一般法適用免除」というものでした。何故、信教の自由が特別なのかということを調べたいというのが直接的な動機でした。

 実は、大学院に入る直前の1996年に、エホバの証人に関する最高裁判決が下ったのです。神戸市の事件で、神戸市立工業高等専門学校が1年生の男子の体育の必修科目として剣道の実技を取り入れてたんですね。ところが、エホバの証人という宗教団体の学生が神戸高専に入学したのですが、エホバの証人の宗教上の教えに基づき、絶対平和主義という考えを持ち、格技には参加することができないと考えていた。そこで、エホバの証人の学生が神戸高専に入ってから、体育の先生と学校に対して、自分はこういう宗教的な考え方を持っていて格技に参加することができないから剣道の実技には参加できない、代わりにレポートを書いて提出するから、それで単位を認めてもらえないかという要請をしたのです。学校側がそれを認めなかったんですね。その結果、留年処分になって退学に至って、そこでエホバの証人の学生がその学校の処分を争った事件です。結論として、最高裁判所は学校側が代替措置を全然検討せずにそういう処分を下したことは違法だと判断したんです。いわば、ある程度、信教の自由に配慮をする判決を下したわけです。

 それが僕にとってすごく魅力的な判決に思えて、この判決を少し勉強してみたいと思って、様々な論文を読んでいったんですね。そうするとアメリカの話が出てくるんですよ。

 アメリカでは1960年代から80年代にかけて、連邦最高裁判所が「一般法適用免除法理」と呼ばれる考え方をとっていました。つまり、通常の国民に対してみんなが従わなければならないような義務を課している法が、ある特定の宗教的な考えを持ってる人にとってはその宗教の教えに反するようなことを義務づけているような場合に、その法律をその宗教を信じてる人にそのまま適用することが信教の自由を侵害するかどうかという問題について、アメリカの最高裁判所は、それなりの理由がないと、そういう場合には法律を適用してはいけない、免除しなくちゃいけないんだという考え方をとっていました。有名な判決として1972年のウィスコンシン対ヨーダー事件判決があります。ウィスコンシン州が州の法律で義務教育制度を定めていたんですね。一定の間はその子どもを学校に通わせなければならないという義務を保護者に課すという法律です。ところがウィスコンシン州内にアーミッシュという宗教団体があった。アーミッシュの宗教的な教えとして、一定以上の年齢になったら子どもを共同体で育てるという信仰があったんですよね。そうすると、アーミッシュの教えに従うと、ある一定の年齢を超えた場合に、自分たちの子どもを普通の世俗の学校に通わせることは、自分たちの信仰に反するということで、アーミッシュの親が自分たちの子どもを学校に通わせなかった。それが州の義務教育法違反ということで起訴されたんですけども、それに対してアーミッシュの親が自分たちがこういう宗教上の考えを持ってるのに義務教育法をそのまま適用することは信教の自由を侵害することになるんだということで争ったんです。これに対して、アメリカの連邦最高裁判所は、なんと、こういう場合に州の義務教育法をアーミッシュの親に適用することは信教の自由を侵害することになって許されないという判断をしたわけなんですね。要するに、アーミッシュに関しては義務教育法を免除しなくてはいけないという判決で、これは当時僕にとって衝撃的な判決でした。

 これ、皆さんも何でそんなことが許されるのって思いませんか。特定の宗教を持ってる人に関しては義務教育制度から免除しましょうという話になるので。これはすごい判決だなということで、そこで何か憲法上の権利の意義というか、真髄みたいなものを垣間見たような気がして、判決を読むんですけれども、そのウィスコンシン対ヨーダー事件判決の中で、宗教的な信念に基づく場合には義務教育法からの免除が認められるけれども、宗教的な信念ではない世俗的な信念に基づく場合には認められないんだという判断が示されているんですよ。これは何故なんだ。宗教的な信念に基づいている場合には、法律からの免除が認められるのに、非宗教的な世俗的な信念、例えば自分たちの親としての考え方として子どもは自分たちの家庭で育てたいという深い考えがあったとしても、それが宗教に基づく考えでなければ免除されないということになるわけですが、なんで信教の自由に関しては特別に免除が認められるという話になるのか、この点に問題関心を抱いて、そこでアメリカの判例・学説を対象に、なぜ信教の自由は特別と考えられているのかということを少し調べてみようというのが僕の修士論文のテーマだったんですね。

 ところが、今から思い返すと無謀なテーマでした。宗教が何故特別なのかという問題は、人類の歴史の中で昔から議論されている問題なんですよね。その問題をアメリカ憲法を素材としつつ検討してみるというのが僕の修士論文のテーマだったんですが、今から思えばすごく無謀なテーマ設定で、一応修士論文を書き上げたんですけれども、あまり納得がいかない出来だったんですよね。とりあえずそれで修士論文を書いて提出して、一応修士論文は合格ということになりました。

 

――一般法適用免除の法理については、先生もその後、度々論じられていますし、「聖職者例外」法理への着目に繋がっているように拝察いたします。修士論文を書かれてから、博士課程でもその研究を続けられたのですよね。

 それがそうでもないのです。修士論文は書いたのですが、すごく納得がいかなかったんですよ。アメリカの判例・学説を調べて僕なりにいろいろ考えたんですけど、結局、結論としては「よくわかりませんでした」という結論だったんですね。もちろん、そうは書かなかったです。でも、趣旨としてはよくわかりませんでしたという結論を書いて出したんですよ。ものすごく自分として納得のいかない出来で、こんな修士論文でいいのかと悩みました。ところが、僕の出身大学の場合は修士課程から博士課程に上がるときに語学試験があって、なかなかストレートで合格しない試験なんですよ。一応修士論文を書き上げて、その後になんとなくモヤモヤした思いを抱きながら試験を受けたのですが、なぜかたまたま一発で通っちゃったんですね。その後、修士論文の面接があって、それで合格が出れば博士課程に進学できる、そういう手続きになるんですが、ともかく修士論文に納得いっていなかったから、実は何名かの先輩に、「語学試験は受かったんだけど修士論文があまり納得いかないからこれを撤回しようかと思ってるんです」という話をしたんです。ところが先輩方から、「それはやめろ」と、「せっかく語学試験に受かったんだから、博士課程に入ってもう一回勉強し直せばいいじゃないか」と言っていただきまして。それで面接を受けたわけですが、その場で審査の先生方から「この結論はどうなんだ」みたいなことを言われながらも、きちんと調べてあるからというので通してもらったのです。

 それで博士課程に入ったんですが、どうしても修士論文に納得いってなかったので、実は当初、この信教の自由の研究は一旦やめようと思いました。一般法適用免除法理の話は僕にはもう無理かなと思ったんです。博士課程の最初のうちは具体的な研究テーマを定めることなく、アメリカの代表的な憲法の研究者について、ABC順で、代表的な論文を読み漁るということをやっていました。それは、今となっては、自分の研究領域でないような領域に関する知識も得ることができたので、全く無駄になったとは思わないんですけれども、ただ、研究テーマを設定しないで文献を漁っても実はあまり身にはならないんですね。そういうことを続けてる中で、浦田先生から「いい加減論文を書きなさい」と、そういうご指示がありました。家に封書が届きました。あまりに僕が論文を書かないもんだから、いい加減論文を書きなさいという趣旨の手紙が届いて。それでこれはさすがにそうだよな、論文を書かなくちゃいけないなと思ったんですが、ともかく修士論文を書いたときのトラウマがあるので一般法適用免除法理の問題はやりたくないけれども、宗教の問題にはどこかで関心があったので、それで選んだのが政教分離だったんですよ。

 そのときに選んだのが、エンドースメント・テストという考え方でした。エンドースメント・テストというのは、アメリカの連邦最高裁判所の裁判官であるオコナー裁判官が、国教樹立禁止条項に関する基準として示したものです。このエンドースメント・テストは、政府が特定の宗教を支援しているというメッセージを社会に向けて発するところに政教分離原則違反の問題があるんだというテストだったんですね。

 エンドースメント・テストは、その後、日本の憲法学でも結構参考にされるようなテストなんですが、政府が特定のメッセージを社会に対して発することが憲法上問題なんだという考え方にこのときはすごく関心を持って少し勉強してみようかなと思ったということで、論文を書いたんですね。最初に書いた「政教分離と裁判官の視点」(早稲田大学大学院法研論集101号161頁(2002年))という論文は、一応それなりに構想があったんですが、結局、連載の1回で頓挫してしまいました。その後「法・政府行為の表現的次元とその問題性に関する一考察」(早稲田法学会誌54巻215頁(2004年))という論文を書きました。これは、なぜ政府がある特定のメッセージを発することが憲法上問題なのか、この問題を政教分離の問題と法の下の平等の問題を具体的な素材として、少し理論的にアメリカの議論を追ってみるといういうことで書いたもので、僕にとってはこの論文が実質上の第一論文ということになるんです。今読み返してみると本当に未熟な論文で、このときも締め切りに追われて書いた気はするんですけれども、当時の僕の問題関心がそれなりに色濃く表れている論文だと思います。たまに注とかで取り上げていただいたりもして、自分にとってそれなりに思い入れがある論文です。ということで、政教分離に関することを博士課程のときには勉強してたという感じです。

 

――そのご論文以降、信教の自由と政教分離に関しては憲法理論研究会編『憲法の変動と改憲問題』所収の論文(「信教の自由と選択的助成問題」(2007年))、それから本学に着任されてから『神戸学院法学』に「聖職者例外」法理についてお書きになっておられます(「雇用差別禁止法と宗教団体の自由」神戸学院法学38巻2号49頁(2008年)、「「聖職者例外」法理とアメリカ連邦最高裁(1)(2・完)」神戸学院法学42巻3・4号365頁(2013年)、同43巻3号153頁(2014年))。その後の研究を拝読しますと、それまでとは少し違った研究をされているようにお見受けしますが。

 『時の法令』の連載のことですね。もともと大蔵省印刷局が出していた雑誌で、国会で可決された法律の解説を官僚の方がするような、ある意味で権威ある雑誌なんですね。2014年からこの『時の法令』という雑誌で、「改めて憲法を考える」という連載をさせていただくことになったんです。これは元々は僕の知人である二人の憲法研究者で連載を担当していたのですが、二人だと大変だから福嶋も入ってくれということで加わりました。この三人で足かけ八年ぐらい、「改めて憲法を考える」という連載をさせていただいたんですね。最後は若い方を二人追加して五人になったんですが、残念ながらそれから一年ほどで『時の法令』は廃刊になってしまい、連載も終了となりました。「改めて憲法を考える」というこの連載は、その時々の日本の憲法情勢を踏まえた上で、好きなように憲法に関することを書いてくださいという連載で、今から考えてもすごく贅沢な連載だったんです。そういう連載だったので、今まで僕はアメリカ憲法のことを研究してきたんですけれども、このときに少し当時の日本の憲法情勢を踏まえて、その時々の憲法に関する問題に取り組んだというのが、『時の法令』に書いた原稿なんですね。ですからこの連載で書いた原稿というのは、いずれもテーマがバラバラです。例えば「公権力による監視と憲法」(時の法令1948号49頁(2014年))とか「公私の区別と「公務員」の自由」(時の法令1952号65頁(2014年))とか「公権力による批判の自由?」(時の法令1958号53頁(2014年)とか、テーマとしては全く一貫してなくて、その時々の憲法に関わる問題の中で僕が重要と思った問題について、できる限り、そのときの意識としてはせっかくアメリカ憲法の勉強をしてきたんだから、アメリカ憲法で学んだ知識も多少活かしながら、自分なりに考えてみるということで、僕が今までやってきたこととは異なるようなことを公表したということですね。テーマは何でもいいと言われていたので、どういうテーマを書くかということから自分で考えてよいということだったのですが、そのテーマ探しが結構大変でしてね。一体どのテーマを自分として論じればいいのかというテーマ探しから始まって、その構成とかも自分で考えて書き上げるということだったので。しかも当初は月一回の連載だったので、三人で回してましたから三ヶ月に一回、連載の番が回ってきた。三ヶ月に一回原稿を書くのは大変なんです。しかも、その時々の時事問題についてそれまでの日本の憲法学の蓄積も踏まえつつ、アメリカ憲法の知識も織り交ぜながら書くというのはすごく大変で。連載中はものすごく苦しかったんですけど、ただ、この連載をすることでいろいろな問題について勉強することができたと思いますし、自分なりにともかく日本の問題について真剣に取り組んだのが『時の法令』の八年間の連載ということになります。

 

――その間、福嶋先生はアメリカの方に在外研究に行かれました。その間の経緯やアメリカで見聞されたこと、特にトランプ大統領についてはお書きになっているものもありますけれども、そのあたりはいかがでしょうか?

 2016年の9月から2年間、神戸学院大学の長期海外研究員として、アメリカのヴァージニア大学ロースクールに在外研究に行きました。何故ここを選んだかというと、ヴァージニア大学は、合衆国第三代大統領のトマス・ジェファソンが作った大学で、僕は信教の自由の研究をしていたのですが、アメリカの信教の自由の判例法理の展開にはトマス・ジェファソンの考え方が色濃く反映されているということもあって、トマス・ジェファソンが作ったヴァージニア大学に行きたいということと、もう一つはヴァージニア大学ロースクールに、アメリカの信教の自由研究の第一人者と言っていいと思うんですけれども、ダグラス・レイコックという先生がいて、その先生のところで勉強したいと思って、面識も何もないのですが、レイコック先生に英語で書いた自分の研究計画書をメールで送って、こういう研究をしたいからヴァージニア大学に行きたいんだとお願いしてみたら、「歓迎する」と。君の履歴書などを客員研究員を選考する委員会の方に送っておくからということで送っていただいて、それでめでたく受け入れてもらったということなんですね。そういう理由でヴァージニア大学ロースクールを選びました。

 そこでアメリカに2016年8月末に行きました。ところが、そのときって皆さんご記憶があるかどうかわかりませんけれども、ヒラリー・クリントン民主党大統領候補とドナルド・トランプ共和党大統領候補の大統領選挙が行われているときで、僕がアメリカに着いた後、大統領選挙の投開票が11月にあったのですが、11月の投開票の当日、開票が始まるまでは、ヒラリー・クリントンが勝つものだと思ってました。アメリカのメディアもそういう報道をしてたと思うんですね。投開票の当日、僕はアメリカのテレビで選挙特番を見ながら、ニューヨーク・タイムズのホームページで予測をしていたので、そのホームページをスマートフォンで見ていました。選挙特番が始まるまでは、ヒラリー・クリントンが勝つという予測が80%以上だったと思いますが、その後どんどんどんどんトランプが勝つ方向に傾いていって、確か日付が変わる前の段階でトランプが勝つという予測がでちゃったんです。これは衝撃的で、僕はその時実は原稿を抱えていて、原稿を書かなくちゃいけないなと思っていたんだけど、やっぱり選挙特番を見ないといけないなと思って、酒を飲みながら見ていたのですが、あまりにもショックすぎて、その日は本当に大量の酒を飲みすぎて、翌日機能しないぐらい飲んでしまいました。ともかくアメリカ社会にとって衝撃的なことで、翌日大学に行ったら、ロースクールの学生の中に泣き崩れている学生がいるような状況でした。特に女性の学生が。ヴァージニア州は南部の州で、南部というのは基本的に保守層が強いと言われてるんですけれども、ヴァージニア大学のあるシャーロッツヴィルはすごくリベラルなところで、ヒラリー・クリントンを当時応援してる人が多かったんですね。ロースクールに来てる学生さんの中で、特に女性はヒラリー・クリントンを応援してる人が多かったんですけれども、ところがトランプが勝っちゃったもんだから、泣き崩れてるような学生もいるぐらい、すごい衝撃的なことだったんですね。

 11月にトランプが当選し、その翌年の2017年1月に彼が大統領に正式就任するんですが、その時に彼が出したのが、いわゆる入国禁止令というもので、イスラム圏の国とは書かないんですが、趣旨としてはイスラム圏の国からのアメリカ合衆国への入国を制限する入国禁止令というものが出されて大騒ぎになったんです。アメリカで大騒ぎになってる様子は日本でも報道されていたと思いますが、法学系雑誌の編集長の方が本学法学部の塚田哲之先生〔憲法・教授〕と懇意にされていて、塚田先生のところに入国禁止令の問題、あるいは今アメリカで起きてる問題を書いてくれる人がいないかというような照会があったらしいです。そこで塚田先生が、そういえば今うちの大学の福嶋というのがアメリカにいるよということを伝えて下さったそうで、僕のところにその編集長の方から今アメリカにおられると聞いたので、この入国禁止令の問題も含めて、今アメリカで起きてることを、不定期連載でもいいから書いてもらえないかというお話がありました。その時、今になって後悔してるのですが、僕は信教の自由の研究をするためにヴァージニア大学に行っていたので、その研究をものすごくやりたいと思っていたから、アメリカで起きている問題をなんでもかんでも書くというのはちょっと荷が重いので、入国禁止令の問題だけ書くということであれば、もちろん喜んでお引き受けしますということで、入国禁止令に関する問題を連載させてもらうことになったんですね(「トランプ大統領による入国禁止令と司法(1)~(5・完)」法学セミナー750号1頁、756号8頁、760号1頁、765号1頁、773号3頁(2017年~2019年))。今にして思えば、もっと頑張って入国禁止令に限らず、アメリカの当時の憲法に関する問題を幅広く執筆させてもらった方が良かったかなと後悔もしているのですが、そのときの僕の考えとしては、ともかくそういう理由でこの入国禁止令の問題にチャレンジさせていただきますということで書かせてもらったということです。

 それともう一つ、僕がアメリカのヴァージニア大学に在籍しているとき、2017年の8月だったと思うんですけれども、これも日本で報道されたと思いますが、僕が暮らしていたシャーロッツヴィルという町に白人至上主義という考え方を持った人が大挙して押し寄せてくるという事件があったんですね。それに対抗するためにシャーロッツヴィルに住んでる人たちなどが抗議をして、そこで衝突が起きてしまって、白人至上主義の男が乗った車が、白人至上主義の活動に反対する人たちの集団に突っ込んで女性が亡くなってしまうという事件が起きました。僕は車が突入する瞬間は見てないんですけれども、その集会があることは知っていたので、ヴァージニア大学からは「危ないから行くな」と言われてたんですが、たまたま日本人の研究者の友人が僕の所を訪ねてきてくれていたので、これを見逃す手はないだろうと思って、その集会の現場に行ったんですよ。その付近を歩いていたら、車がバーンとぶつかった現場を見かけて、警察は来てる、消防は来てる、手当を受けてる人もいると、大変な状況でした。その現場にいたときには何が起きたか知らなかったんですけれども、その後友人と食事をしてその友人をホテルに届けて、そのホテルのロビーのテレビを見たら、どうやら車が突っ込んで人が亡くなったらしいということを知ったんですね。すごく愕然としました。その事件が起きた翌日か翌々日くらいに、先ほどの編集長の方から、そういえばシャーロッツヴィルって福嶋先生がいるところですよね、ぜひともこの事件について原稿を書いてもらいたいと依頼されて、短時間で書いたのが「ヴァージニア州シャーロッツヴィルにおける白人至上主義をめぐる騒動について」(法学セミナー754号1頁(2017年))という原稿です。これまでいろいろな原稿を書いてきましたが、その中でも僕が書くことに本当に意義があったんだなと思うことのできている原稿はこれです。他の論文は別に僕が書かなくても書ける人がいっぱいいたのかもしれませんが、この事件に関しては当時そこにいた僕にしか書けない原稿だったので、今まで僕が書いた原稿の中で個人的には一番書いて良かったと思う原稿です。当時撮った写真とかも載せていただいて、車がへこんでいる写真や警察が現場封鎖してる写真も載っていると思いますが、これは僕が現場にいたから撮れた写真ですし、当時の街の雰囲気とかも肌で感じていたので書けた原稿ということになります。

 

――現在の研究の関心は如何でしょうか。

 信教の自由が依然としてメインなんですけれども、従来はどちらかというとリベラル派と言われる人たちが、信教の自由とか言論の自由の手厚い保護を求めて、どちらかといえば保守派と言われる人たちは信教の自由や言論の自由の手厚い保護に消極的だったんですね。このうち日本の憲法学はリベラルな立場のアメリカ憲法学をこれまで参考にしてきたように思われます。どうやって少数者の権利を保護するのかということで、これまで日本の憲法学はアメリカ憲法に対峙し、摂取してきたと僕は理解してるんですけれども、ところが、アメリカの社会が分断化し、かつアメリカの連邦最高裁判所が保守化したことを受けて、最近はどちらかというと、保守派の方が信教の自由とか言論の自由の手厚い保護を求めてるという状況があるように見えるんですね。

 具体的に話をすると、特に最近問題となっているものとして、同性婚とか同性愛者の権利と信教の自由の対立という問題があります。アメリカでは、2015年のオバーゲッフェル判決という判決があって、連邦最高裁判所が同性婚を認めないことは憲法違反だという判断を下しました。アメリカは連邦制をとっていますから、どういう結婚制度をとるかは州ごとに決まっているんですね。2015年以前から同性婚を認めている州もあったんですが、2015年の時点で同性婚を認めていない州もありました。しかし、連邦最高裁によって同性婚を認めてない州法は憲法違反だという判決が下されて、全米50州で同性婚が認められることになったんですが、ところが宗教団体、特に保守的な宗教団体や、あるいは保守的な宗教的な考え方を持つ人の中には、同性婚とか同性愛を宗教的に受け入れられない人たちがいて、そういう人たちが、最近は信教の自由を使って同性婚とか同性愛に抵抗するような動きが見受けられるんです。例えば、アメリカでは州によってパブリック・アコモデーションっていうんですけど、公共施設、これは普通にイメージする公共施設だけじゃなくて、ホテルやレストランなどの事業者、お店も含まれたりするんですが、そういうホテルとかお店は性的指向に基づく差別をしてはいけないという法律とか条例を持ってる州や自治体があって、例えばウエディングケーキを販売するケーキショップが同性婚カップルに対してはウエディングケーキを販売しないということをやると、性的指向に基づく差別を禁止している州法違反ということになるんですね。ところが、実際にアメリカで起きた事件なんですけれども、保守的な宗教的な考え方を持っているケーキショップのオーナーがいて、その人のお店に同性婚カップルがウエディングケーキの作成を頼んだところ、そのオーナーが自分はこういう宗教的な理由で同性婚には賛成できないからケーキは作れないということで断ったんです。それが性的指向に基づく差別だということでケーキショップ側が州法違反として起訴されることになったのですが、これに対して、ケーキショップの側がそういう状況で州法違反に問うことは信教の自由違反だということで争った事案があるんですね。マスターピース・ケーキショップ事件という有名な事件なんですけれども、この事件に象徴されているように、最近はどちらかというと保守派の側が信教の自由を使って、例えば同性愛者を保護するための法律の適用を憲法違反と争うような状況が出てきていて、従来はどちらかというとリベラル派が信教の自由とか言論の自由の手厚い保障を求めてきたのに対し、最近はどちらかというと保守派の側が、自分たちの主義・主張を通すために、信教の自由とか言論の自由の手厚い保障を求めるような状況にあって、これに対して現在の連邦最高裁判所、ジョン・ロバーツという人が長官ですのでロバーツ・コートと呼ばれますが、ロバーツ・コートはそうした保守派の主張を受け入れるような姿勢を示し始めているんですね。その問題に今関心を持っていて、研究をしているところです。さきほど言ったように、従来、日本の憲法学は、どちらかというとリベラルなアメリカの憲法学あるいは憲法判例に多く学んできたように思われますが、最近では、保守的な最高裁判所が、これまで築き上げられてきたリベラルな遺産を突き崩すような保守派の主張を受け入れ始めているような状況にあるので、そういう今のアメリカの憲法判例の動向の変化というのが、これまで日本の憲法学が摂取してきたアメリカ憲法理論にどういう影響を与えるのか、そういう状況の中で日本の憲法学がアメリカ憲法にどう向き合うべきなのかということを研究したいというのが、最近の研究関心で、その話を簡単に学会報告という形でさせていただいたのが、憲法理論研究会編『憲法の可能性』(2019年)という本に書いた「アメリカにおける憲法裁判の現在」という論文なんですね。この論文で書いた憲法上の権利を巡る動向について、今は研究を進めていて、今後もそれを研究していきたいということになります。

 

――有難うございました。これから大学生として過ごしていく学生に、先生の大学生活について少しお話いただけますでしょうか。

 僕はどちらかというと真面目な学生ではなかったです、大学生としては。もちろん司法試験の勉強をするために法学部に入ったので、司法試験の勉強をコツコツと自分で予備校なんかも使いながらやってましたが、大学の授業ということで言うと、あまり真面目に授業に出てなかった学生ですね。ただ、憲法に関する勉強は好きだったし、法律科目の中では例えば刑法とかは好きだったので、自分の関心のある授業には一応真面目に取り組んで出席もしましたけど、自分の関心がない授業に関してはきちんと出席しませんでしたね。そうした科目に関しても、司法試験の勉強をしていたこともあったので、自分で定期試験前に勉強して単位は取りましたが、だけど、どちらかというと自分が興味ある授業には出るけれども、興味ない授業には出ないという学生でした。今にして思うと、すごくもったいないことだと思ってます。出ておくべきだったと今は思いますが、当時はそうでした。どちらかというと僕は大学生活においてはサークル活動が大きなウェイトを占めていて、僕はバンドサークルに入っていたんですけれども、バンドサークルで友人とバンドを組んで、年何回か定期演奏会がありましたので、定期演奏会といってもそんなにかっこいいもんではないんですが、それに向けてスタジオに入って練習するとか、あとは友達と酒を飲みながら、ともかく酒を飲むのが大好きなサークルだったので、酒を飲みながら好きな音楽の話とか、あるいは日常的なとりとめもない話をする。バンドサークルの友人とつるむというのが大学生活では一番ウェイトが大きくて、なんかもうサークルの友達に会いに行くために大学に行くという感じでした。その合間に自分が関心のある授業に出るという、そんな感じの大学生活だったと思います。例えば、授業に出るために午前中に大学に着いて、サークルのたまり場に寄ってみると、友人が落ち込んでるので、どうしたんだと聞くと、彼女にふられたと、それは大変だな、じゃ飲むかということで、午前中から飲み始めちゃうとか、そういうこともありましたよね。だけど、今から思えばやっぱり、大学の先生方はプロばかりだから、プロの話を聞けるチャンスをみすみす逃してたんですよ。そのことに卒業した後に気づきました。実は僕の周りの友人も、全員が全員そういうわけじゃないんだけど、大学の授業に出ない奴が結構いたんですが、卒業後にやっぱり授業に出ておけばよかったなという人もそれなりにいますよね。僕はもうその最たる例で、当時はつまんないなと思って授業に出ない科目もありましたが、大学の授業というのはその道のプロが教えてくれるものなので、やっぱりその話を聞かなかったというのは勿体ないことをしたなといまだに後悔してます。ですから、皆さんは大学の授業にはきちんと出てくださいということになりますね。

――最後に、学生に向けて伝えたいことを一言お願いします。

 皆さん、これからいろいろな法律科目を勉強すると思うんですね。できれば全ての法律科目を好きになってもらった方がよいとは思うんですが、だけど多分そんなことは無理だという人もいるんじゃないでしょうか。僕自身がそうでしたし。皆さんにお伝えしたいことがあるとするならば、この法学部でこれからいろんな授業を受けていくわけですが、どれか一つでも自分が好きだと思える科目、関心があると思える科目、得意だと思える科目、どれか1個でもあると大学生活が大きく変わるのではないかということです。全くそういう科目がない人に比べると、圧倒的に違うと思います。その科目は何でもいいと思うんです。僕は憲法が好きだったから、憲法の勉強をしましたが、憲法はちょっと苦手だけど、民法が好きであれば民法でもいいし、民法はちょっと苦手だけど、刑法が好きだったら刑法を勉強すればよいし、歴史が好きだから法制史を勉強するということでもよいし、あるいは法律はちょっと苦手かもしれないけれど政治だったら少しは関心あるなということであれば、政治学を勉強するでもよいし。少しでもいいから自分が好きとか得意とか関心あると思える科目を1科目でも持っていると、大学生活はずいぶん充実すると思います。大学生活って本当にいろんなことできて、僕はサークル活動に重きを置いてやってたんですが、やはり大学でしかできないことといえば、大学の授業を聞いて学ぶということになるので、やはり勉強学問ということを1つの主軸にしてもらいたいと思うんです。法律や政治の科目には一切関心ありません、一つも好きな科目や得意な科目はありませんと思って大学生活を過ごすのと、1個でもいいから関心のある科目、好きな科目、得意な科目があると思って大学生活を過ごすのとでは、大学生活がずいぶん違ってくると思うので、できるだけ早い段階で、自分が好きかもしれない、得意かもしれない、関心があるかもしれないという科目を見つけるといいんじゃないかなというところですかね。

 

2022年6月17日実施

聞き手:藤川直樹(法学部准教授)ほか法学部1年生有志

   
   
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